フォランタ公から話を聞いてからも、ディアボロスがすぐに都に発つことはなかった。最大の理由は、ネルラである。
ノイラル公に謁見するのであれば当然、ノイラル公直属の家臣であったネルラを連れてゆくほうが良い。ところが、領内のことを最も理解しているのもネルラであり、ディアボロスもネルラもいない状態では統治がガタガタになってしまう。そのために、ネルラを連れてゆくことも、連れてゆかないこともできず、領内に留まるほかなかったのである。
しかしいずれ謁見に向かわねばならないことに変わりはない。故にディアボロスは統治システムの構築に力を注いだ。
局所的に見れば既に個々がすべきことは明らかであり、いちいちディアボロスが指示を出すまでもない状態であった。しかしながら、それぞれが何を目標としているのかを理解した上で自主的に動いているわけではなく、これまで「その日限り」だった命令をもう少し長いものに変えただけの話で、ディアボロスの命令の意味するところを理解するには及んでいなかった。
だが、それはゴールの見えている戦いであった。ディアボロスは重臣に、ただ任務を理解遂行させるだけでなく、ディアボロスの考え、そして戦略などを細かく説明し、理解を求めた。腹に抱えたものは話すとしても限られた側近だけというのが当たり前の中、未来のことまで明確にするディアボロスのやり方はまた驚かれた。
ディアボロスが出発を決めたのは、フォランタ公の来訪から三週間が経った頃であった。
ディアボロスはメンバーに騎士、馬丁、侍従の他にはネルラだけを同行させた。ディアボロスは留守を守る女のため、騎士の中で特に信頼できる者たちを城に残し、少人数で都に向かうことにした。
馬車旅であり、ディアボロスが乗ることを想定して予め大きな馬車を用意したことから道中はディアボロスが不安になるほどに平和であった。
都を前にした夜、ディアボロスは宿を抜け出していた。
旅は至って順調であり、明日には都につくことだろう。そもそも危険いえば盗賊やモンスターといったところなのだが、ディアボロスにとってはその程度なんら障壁でなく、そもそもそんなにいつも危険にさらされるような状況であれば商業が成り立たない。道中平和であることは当たり前といえば当たり前であった。
この世界でも星が輝いている。
ディアボロスはもとより星を見る趣味があったという気はまるでしないのだが、少なくともこの世界に来てからの日々が星を見ようという気持ちにさせないものであったのは確かだ。それ以前に、夜に出歩く者などまずおらず、星を見る機会自体がなかったかもしれない。
元の世界がどんな空をしていたか、思い出すことはできないが、郷愁を感じないのだからまるで違うのか、完全に忘れているのか、あるいは元の世界で星を意識したことなどなかったのだろう。ただ、元の世界にも同じように瞬く星々があったことだけは確かであった。
「いかがされましたか?」
不意に声がかかった。ディアボロスはその声の主を確かめることなく、そのまま星を眺めた。
「星を眺めることがそう多いわけではありませんが、綺麗なものですね。閣下にはそのような趣味が?」
「いや…………」
だが、なんと答えるべきか思い浮かばず、そのまま星を眺めていた。
「シトラス領でも祭りでもなければあまり夜出歩くことはありません。治安が悪いわけではないのですが、やはり夜は何かと危険ですから。とはいえ、閣下がお好きなら、星を見る祭りを作るのもよいかもしれませんね」
ディアボロスは黙っていた。ネルラも、ディアボロスが不機嫌ではないことは分かっていた。
ディアボロスは領を発つ前に領名を「シトラス」とつけた。なぜミカン属の名を冠するべきだと思ったのかは自身にも全くわからなかったが、家の名前と問われて浮かぶのはそればかりだったのだ。
その気配はないが、いつかディアボロスが自身の名を思い出すこともくるだろうか。そうすればディアボロスと呼ばれることに違和感を覚えるのかもしれない。あるいは、家の名前はシトラスではないかもしれない。だが、その気配はなく、決断を遅らせることはできなかった。
「何か、悩まれているのですか?」
ディアボロスはなお沈黙した。無視したわけではなかった。
「わからない」
長い沈黙を経て、ディアボロスはそう答えた。今度はネルラが黙った。言葉がなかったのではなく、ディアボロスをただただ待った。
「俺は、元の世界を思い出せない」
ディアボロスが言葉を続けようとしているのを見て、ネルラは待った。だが、どれほど待っても言葉は続かず、やがてディアボロスは続きを口にするのを諦めた。
ネルラは問いかけようとして、やめた。「元の世界に戻りたいとお考えですか?」無意味だ。ディアボロスは思い出せないと言ったのだ。思い出せないのであれば知らないのと大差ない。知らない世界に戻りたいと考えることはない。ディアボロスがそのことで苦しむとしたら、戻りたいからではなく、思い出せないからなのだ。
それにネルラには、ディアボロスがこれほどまでに苦しんでいる理由はなんとなく察せられた。
ディアボロスがマリーを失った、ということはとても大きい。だからマリーのことを思って、というのも当然にあるだろう。しかしそれ以上に、ディアボロスは執拗なまでに戦闘を避けようとしていた。やむを得ずモンスターとの戦闘になった場合も、ディアボロスが一撃を振るえば終わるような局面で、入念にモンスターと隊を引き離し、その上でモンスターを捕獲して握りつぶすなど手間のかかる戦いを続けている。
当初、シトラスに着くまでにはディアボロスはただマリーを失った状況が傷となり、臆病になって戦えないという面も見えた。だが、今はそれよりも、ディアボロスが自身の戦闘が味方を巻き添えにする可能性が高いということを分かった上で、巻き添えにすることを恐れているようだった。ディアボロスが時折城を抜け出し、街を出て森の中で拳を振るっているのは、どの程度であれば巻き込まないかということを体に身に着けようとしているのだろう。だが、実際は力加減によって大きく変わってしまい、激しい戦闘になるほど巻き込まないようにするのは困難となる。領主としての意識が強まるほどに、ディアボロスは苦しんでいるようだった。
「私は、閣下の心痛をなくして差し上げることはできませんが……」
それでも、ネルラとて黙ってはいられなかった。
「私はいつでも閣下のお側にいます。閣下おひとりでシトラスの地を営み、守る必要などありません。閣下おひとりを戦わせるつもりもありません。例えどんな困難が引き裂こうとも、私は必ず閣下の元へ舞い戻ります」
ネルラの言葉にディアボロスは何も答えなかった。ただただ、沈黙と静寂が支配する時が流れた。
届かなかったのだろうか。ネルラがそう思いうつむいたとき、大きな手がネルラの肩を抱いた。
「俺は、ネルラが俺を見つけてくれてよかったと思っている」
ディアボロスはそれ以上は言わなかった。
「本当に、星が綺麗ですね」
「そうだな」
二人は眠くなるまで、夜空を眺めていた。
ノイラル城はディアボロスの想像に反した建物であった。型破りとも思われたノイラル公の性格、そして芸術的な設計であったシトラス城のイメージから、モダンで芸術的な建築物を想像していた。だが、実際には完全なる要塞であった。それは、侵略する外敵から身を守り、怒りに震える領民から身を守るための城なのだ。険しい山の上にあり、街と城の間には断絶があった。道は整備されておらず、意図的に転がされた岩に石にと歩きづらさから言ってもまともな侵攻は難しい。この上ないほど攻めづらい城だ。
街にしても、別に陰鬱としているわけではないが、シトラスのように陽気なわけでもない。人々は親切だが、北国らしい無口さであった。そして、それはただ寒いからという理由ではなく、なんとなく戦火の気配を感じる街でもあった。まだディエンタールのほうが平和な空気であったと言ってよい。
街まで騎士が二名、迎えに来ていた。もっとも、ディアボロスの騎士もネルラを含めてノイラル城の勤務経験があるため、特に戸惑いもなく和やかに城へと向かった。ディアボロスにすれば、ついついきょろきょろと見回してしまいそうになるが、それでも堂々たる姿勢を貫くために騎士に周囲を固めさせ、前を見て歩を合わせた。
跳ね上げ式の橋を持つ堀をふたつ抜け、白兵戦を考慮した庭を抜け、角のある狭い廊下が続き、ドアを抜けると部屋の角に出る、というのを繰り返すのはこの世界のトレンドなのだろうか。廊下は罠が仕掛けやすく、銃撃戦にも向いていそうなものであり、角から出てくるしかないのではとても攻められそうにない。生活はとてもしづらそうで、完全に軍事に寄せた城である。ディアボロスにとっては狭すぎてまともに戦えるような場所ではない。ディエンタールで城そのものを破壊しながら戦闘したことが思い起こされた。
ディアボロス一向が案内された場所をディアボロスが的確に表現しようとするならば、「会議室」であった。長机を囲む椅子がわずか十座あるだけの狭い部屋であり、ディアボロスにとってははまり込むような感覚であった。その会議室に待っていたのはノイラル公と、若い女の騎士であり、ディアボロスも他の騎士は待たせてネルラと二人で入室した。
ノイラル公は思い描いたのとは随分と違う人物であった。
フォランタ公は高齢で引退したとはいえ、七十に届かない程度の初老の紳士であり、いかにも穏やかな「いいおじいちゃん」であった。ノイラル建国にあたってはフォランタ公と二人で帝国に立ち向かったという話であったから、フォランタほどの歳で、明るい人物なのではないか。ディアボロスは勝手にそう考えていたのである。
だが、実際は、ノイラル公は厳しい顔をした中年の人物であり、入室したディアボロスに鋭い眼光を向けた。この世界の人々と比べ、明らかに長身で体躯は大きく、どちらかといえば軍人のような印象であった。
「君がディアボロスか……」
ノイラル公は立ち上がり、握手を求めた。ディアボロスが手をとると、しっかりと力強く握られた。
「あぁ。ディアボロスだ」
「わたしがクロフォンド・ノイラルだ。会えて光栄だよ」
ノイラル公は笑顔を見せたが、その笑顔もまた厳しかった。
「ご無沙汰しております、閣下」
ネルラがノイラル公に笑顔を向け、手を取る。その笑顔が、いつもディアボロスが見るものとはいささか違うことに気づいたが、今は努めて気に留めないようにした。
「ネルラも元気そうでなによりだ。君の美しい顔が毎日見られなくなってとても寂しいよ」
社交辞令か本心か、ノイラル公はそう言った。すると女騎士がわざとらしく咳払いをした。
「閣下、そんなことを言っているとおばさまに告げ口しますよ?」
ネルラにそう言われ、ノイラル公は笑顔のままそっと手をひっこめた。
「私はもう身も心もディアボロス閣下のものですから」
ネルラは笑顔で追い打ちをかけた。すごすごと引き下がってノイラル公が着席するや否や、女騎士が進み出た。
「閣下?傍に置くなら顔が綺麗なほうが良いと私を置きながらそれはあんまりではありませんか?」
女騎士に笑顔で責められ、ノイラル公はその大きな体を縮こまらせた。
「まったく、これだからこの国の女どもは気が強くていかん。だいたい凍てつく薔薇などと言われたネルラが今になってすっかり女の顔になりおって――」
「閣下?私は最初から女ですよ?閣下がご覧になる機会がなかっただけのことです」
ノイラル公はすっかり縮こまってしまった。見た目と雰囲気こそ厳しいが、その関係性はフランクなものであるようだ。そんなことを思っているとついディアボロスは笑顔になってしまい、取り繕うように顔を引き締めた。
ノイラル公との会談は、重要だが退屈なものであった。
そのほとんどは事前に聞き及んでいたことをノイラル公が自ら伝えているに過ぎない。まず、ディアボロスへの侯爵位の授与によって統治者の資格という疑問を解消し、またノイラル領内での明確な地位を与え、体外的にも振る舞いやすくするということである。これは、ノイラル公はノイラルにおける地位が邪魔であるならば、と配慮を示したが、ディアボロスは「多少の恩義もある」と「ノイラルのシトラス」となることを受諾した。
そして、ディアボロスの役割である。これは、事前の話の通り、フェルストガルム国境の守護というのが体外的な意味合いだが、実際には物資的にも人材的にも設備的にも重要な拠点であるシトラス領そのものを守護することが本来の目的である。これについて方針を話し合うことになったが、ディアボロスにとっては異を唱えるつもりは全くなかった。例え何かを成すことなくシトラス領を守って障害を終えるとしても、あの街の人々と美しい女たちと過ごすのであれば決して悪い話ではないように思われた。別にこの大いなる力を積極的に振るうつもりもなかったのだ。その力がマリーを殺したのだからなおさらである。
「だがな――」
話がまとまったところでノイラル公が話を続けようとしたことに、ディアボロスは些か戸惑った。
「話はそれで終わらないのだ。君は、君が何者で、なぜ、どうやってこの世界に来たのか、把握しているかね?」
ノイラル公の言葉にディアボロスは眉を顰めた。と同時に、これが本題なのだということにも気づいた。
「……ネルラとそこの騎士にも聞かせていい話なのか?」
「この話をまとめてくれたのはネルラだ。それに、こいつも極めて信頼できる。気にすることはない」
ディアボロスはため息をついた。そのことはずっと考えてはいたのだが、まるで考えがまとまっていないのだ。
「先にそっちが知っていることを聞かせてくれ」
ノイラル公はうなずき、しばらく考え込んでから口を開いた。
「わたしたちは、貴公がディエンタール王によって召喚されたと考えている。そして、その手段は今ディエンタールには間違いなく存在している。
そして、それが一体実際としては何をしているのか? 詳しくは分からないが、貴公が神話に出てくる魔神、ゴルダールに非常に通じるものがある、と考えている。リソイ、絵を」
ノイラル公の言葉に応じて女騎士が紙を取り出した。そこに書かれている絵は、確かにディアボロスに似ているといえばそのようにも見えた。
「ディエンタール王は歴史から見れば突如現れた覇王だ。出自については一切が不明だが、魔術の枠を無視したこの世ならざる術と、この世ならざる戦士たちによってまたたく間に覇道を極めた。そしてその途中、沈んだ島も、ありとあらゆる生命を閉ざした砂漠もある」
あの王からは想像もつかない――とディアボロスは思ったが、考えてみればそれは初代ディエンタール王のことであろうと気づいた。
「その後には、この世界で禁じられた神代の術があるものと考えている。そのうちのひとつが、神の召喚だ」
「神の……召喚?」
「うむ。ディエンタールの戦士は神話に出てくる戦士たちによく似ていたようだ。そしてその力は明らかにこの世の者ではない。そして、貴公はディエンタール王に呼ばれ、この世に参じた。その姿、力はどう考えても神話における最強の魔神、ゴルダールそのものであるというわけだ」
ノイラル公はそこで言葉を終えた。やや半端であるようにも思えたが、ディアボロスの言葉を待っているのだろう。
ディアボロスはディエンタール王の顔を思い浮かべた。今の話を聞くと、どちらかといえば気弱で良君に見えたディエンタール王が、ひどく腹黒く思えてしまう。
「その推測が正しいとは言い難いな」
ディアボロスが口を開くと、ノイラル公は目を見開いた。
「ディエンタール……ディエトリアに初代ディエンタール王が持ち込んだ秘術が眠っているという説明自体はおかしくはない。だが、少なくともディエンタール王が秘術を握っているということはない。俺が召喚されたとき、ディエンタール王は居館にいたし、俺が呼ばれたのは城ではなく隣にある塔だった。そして、そのとき魔術師が取り囲んでいたし、俺が呼ばれたときには既にまわりには多くの死体が転がっていた」
「ふむ……魔術的儀式か?」
「恐らくはそうした類だろう。そして、俺が神そのものだ、という説明にも違和感がある。なにしろ、俺には元の世界の知識がごく断片的にある。俺が何者だったかというのはまるで思い出せないが、それでもそれが神の世界ではなかった、というのはほぼ断言できる」
ノイラル公は考え込んだ。言葉を慎重に、慎重に選んでいるようだった。
「よかったら君の世界の――」
いいかけたとき、ガンガンとドアが乱暴に叩かれ、開かれた。
「何事だ!」
飛び込んできた騎士に、その厳しさがようやく似合うような怒鳴りを発した。
「も、申し訳ありません、面会人が、今すぐ閣下とディアボロス殿に合わせるようにと」
「断れ!相手にする必要などない!」
「そっ、それが……面会人はカシマ王でございまして…!」
「んなっ…!」
ノイラル公はひどく驚愕すると、そのまま天を仰いだ。
一体何事が起きているのか、全く尋ねられないまま事は進んだ。ディアボロスとネルラは席を詰めた。その緊迫した雰囲気からディアボロスは戦闘が起こる可能性を考えた。この狭い部屋で戦闘になればネルラを巻き添えにしないことはどうしてもできない。なんとしても敵を引き剥がしてから戦わなくてはならない。かなり困難なことであった。
そして、その人物は本当に間もなく部屋に入った。
「貴様は…!」
眩しいほどの白い衣。金色の刺繍。間違いなく以前みた、あの男だった。そして、それに続いて入室したのは
「貴様はッ…!」
ディアボロスは立ち上がった。膝まである深紅の髪。怪しく光を放つ赤い瞳。魅惑的な曲線をもつ体。ゾッとするほど美しい容貌。
「アルセエリス…っ…!」
マリーの死の引き金となった戦いを演じた、魔王の姿であった。
白装束の男とアルセエリスと睨み合った。闘気にディアボロスの体が膨らんだ。部屋が熱と、部屋が揺れるほどの闘気に満たされてゆく。
白装束の男は手を広げ、肩をすくめて見せた。
「今あんたと戦うつもりは俺にはないよ。それでもあんたが仇討ちのためにエリスを殺したいと言うなら、俺としてはあんたを殺すしかなくなるけどね」
やや軟派な優男…そう見えたが、次の瞬間、男はディアボロスを睨みつけた。思わず後ずさり、壁に背をつけるほどの圧力であった。
(やはりこいつは強い……いや、強いなどという次元ではない!)
これほどの強さを持つ男に、あれほど苦戦を強いられたアルセエリスもいる。そしてもうひとり、青い髪の女。正体は不明だが、この男がディエンタールに飛来したとき、空を舞う女たちを引き連れていたことを考えれば、その中のひとりと考えるのが自然であり、この場に選んでいるからには相当な強さがあると考えるべきであった。
有利な状況を作りだしたところで、この三人を一度に相手にするのはディアボロスといえども自信が持てなかった。まして、まともな戦闘力を持たないネルラを守りながらでは到底勝てないのは明らかであり、この場は誰もがこの男に従うよりないのだ。ノイラル公の反応は、それを理解してのものだった。
「さて。自己紹介からかな。俺はタケル・カシマ。武甕槌と呼んでくれても構わないよ」
「タケミカヅチ、だと……?」
言葉には聞き覚えがある。正しくは思い出せないが、間違いなくそれは「神の名」だ。
「あぁ、べつに本物の武甕槌ってわけじゃない。単に名前が武甕槌を連想させるから愛称になっているだけさ。別にカシマ王でもなんでも構わないさ。さ、あんたも名乗ってくれよ?」
「あ、ああ。俺はディアボロス・シトラス・ノイラルだ」
差し出された手をディアボロスは握り返した。握った瞬間仕掛けてくることも考えたが、実際にはそのようなこともなく、むしろやさしく握った。
「へぇ、名字はシトラスにしたのか。随分と甘酸っぱい名前だね」
手を離すとタケル一向は着席した。しばらくタケルとアルセエリスを睨みつけていたディアボロスも、やがて席についた。
「いいタイミングで来れたみたいで何よりだ。ノイラル公は一通り説明を終えたのかな?」
「う、うむ。我々の知っていることは伝え、ディアボロス殿からも話を聞いたところではある」
「……貴様ら、結託していたのか?」
「い、いや、違う!」
ディアボロスが殺気立つと、ノイラル公は慌てて否定した。
「単に、あんたに話すのにイチから説明するのも難しいし、話せるようになるまでも遠そうだと思ったから機に乗じただけさ。スパイ活動の賜物ってわけ」
タケルは甘い、といえば聞こえはいいが、酷薄なと言ったほうが正しい笑顔を浮かべながらそう言った。
「あんたは自分が何者で、どうやって呼び出されたのかを知ることができる。ノイラル公とネルラちゃんはずっと追い求めてきた真実を知ることができる。何も悪い話じゃないはずだけど?」
否定はできなかった。だがそれ以上に、ディアボロスは今までの話でネルラのことが気にかかった。ネルラはどれだけのことを知っていたのか。本当は何のためにディアボロスと共にいるのか。少し信じられなくなりつつあった。
「まぁ、長い話だから本題に入らせておくれよ。記憶が曖昧らしいけど、あんたは日本人……あ、いや、日本人だとは限らないか。でも武甕槌を知ってるくらいだし、日本人だろ?」
「日本人……?」
「なんだ、そこも曖昧なのか。それとも、上層世界のことは覚えているのか?」
「まて、何の話をしているんだ」
今の今まで雲を掴むような曖昧な推測で話をしていたのに、突然核心を知っている人間が知っている前提で話を進める状況に、ディアボロスはまるでついていけなかった。否、当事者であるディアボロスはまだましで、ネルラやノイラル公に至ってはまるで何の話をしているのかわからずきょとんとしていた。
タケルはまた肩をすくめて「そっからかよ」とぼやいた。
「わかった。俺がイチから話してやるよ。いいか、まず俺らの体は三千世界の上層世界のもの、つまりこの世界から見れば神の体。そして俺達の魂もその神のもの。俺達は神そのものってわけさ」
「……自分が神だとか、狂っているのか?」
「大真面目さ。そして事実だ。けどな、上層世界から三千世界の支流を通って別の世界に行くには上層世界の住人とこの世界の住人で差がありすぎる。だから、下層世界の魂を混ぜ込む必要がある。そしてこうした突飛な出来事に馴染みやすいって理由で銀河の、地球の、特に日本人が選ばれやすい。適当に選んではいるけど、別に単なるまぐれじゃなく、選ばれて日本人に偏ってる」
言っている意味がわからなかった。隣ではネルラが内容を図にしてなんとか理解しようとしていた。
「つまり、体は神のもので、俺達の元の体とは全く関係ない。けど、神の体に神の魂と人間の魂がごちゃまぜで入っているのさ。ふたつ入ってるんじゃなく、混ざって元の形なんてない。だから意思だって神だった時の意思と人間だったときの意思が混ざってる。あんた、ディエンタールじゃ散々な殺戮劇を演じたろ?人間のあんたは、例え窮地だったってのを差し引いても、人をゴキブリかクモで潰すみたいに迷いなく殺しまくれるようなヤツだったのか?」
ディアボロスは思い返す。ディエンタールに召喚された直後、あまり明確な意思があったとは言い難い。その時何を考えていたかと言われても思い出せない。ただ、自分が何をすべきかだけはわかっていた。そして、ただ機械的に敵を殺戮し、そこになんの感情もなかった。しかし、ディエンタール王を探しているときには苛ついていたし、ディエンタール王と対峙しているときには破壊的な感情や、眼の前の敵を引きちぎりたいという気持ちでいっぱいだった。
だが、マリーと会ってからはどうだろう?もちろん、状況によって感情は揺れ動く。それでも、ウィスガフ軍との戦闘においては、ディエンタールでの戦闘ほど冷静さと冷酷さを持っていたわけではなく、生々しい感覚を塗りつぶすような戦意と闘志が湧き上がってきたのを覚えている。
人としての自分と、神としての自分がいて、平和な世界に生きてきた人間と、血なまぐさい世界に生きていた神であるとするならば、その乱世で当たり前のように戦えることは神としての自分があってのことだというのは違和感はない。召喚直後の戦いは、まさに何かが乗り移ったような夢うつつの心地であった。
それは今の自分とは異なる誰かの意思によって動いていて、今それが混ざりあった存在となった、とすれば納得はできるが、なんとも気持ち悪いものがあった。
「思い当たるところのありそうな顔だな」
タケルの声に我に返った。
「……確かに、そう説明されれば違うとは言い難いのは事実だな」
「受け入れがたいけど?」
「その通りだ」
「事実だ。あんたが上層世界最強の巨人、ゴルダールなのは間違いない。もっとも、人間としては誰なのか、知りようがないけどな。あんた自身が覚えてないっていうなら、知る方法はない」
その言葉でディアボロスは苛立ちを見せた。その様子を見てタケルは訝しげに眉を顰めたが、やがて何かに気づいたようで笑いだした。
「あぁ、女たちの『誰が』スパイかってことか」
ディアボロスはそれに答えなかったが、今にも殴り掛かりそうなほどに苛立ちを表した。がつがつと床を踏みしめ、部屋が揺れた。
「心配するなよ。誰かがスパイなわけじゃないし、領内にスパイがいるわけでもない。ちょっとした魔術を使って話を聞いていただけさ」
「なるほど……ん?」
一瞬納得しかかったが、すぐ違和感を感じた。
「魔術は永続しないだろう?遠隔で起動することもできないはずだ」
「ん?ああそうか、魔術について説明しなきゃならないか」
タケルはそう言うと宙で指をくるりくるりと三度回した。すると宙でぽわっと火が上がり、すぐに消えた。
「魔術自体はこの世界の外側からエネルギーを持ってくるためのインターフェイスだ。基本的にこの世界で使われてる魔術は上層世界からエネルギーを持ってくるけど、別にそれに限られてるわけじゃない。実際、エリスは魔術を使うけどその手続きはこの世界の住人が使うものとは全く違うし、性質も違うだろう? 手続きの複雑さや制限は自身が呼び出すエネルギー源世界との距離によって決まる。この世界の住人なら上層世界との距離は一定だから同じ方法で呼び出せる。逆に言えば俺達は同じ方法じゃ上層世界の力を使えない」
タケルはこの世界では聞かないような言葉を次々に並べた。明確にディアボロスに向けられた言葉であり、ノイラル公やネルラでさえも理解の緒もなく途方に暮れていた。
「だからエリスや俺はこの世界とは違う体系の魔術が使えるわけだけども、俺には元の神としての俺から持ち越したいくつかの力がある。その中に『抱いた女を自分に近い存在に改変する』ってのがある」
「…………は?」
唐突な話にディアボロスは間抜けな声を上げた。
「まぁ、正確にはそれだけじゃない。女を抱けばそれだけで『従属させる』ってのもある。ま、俺にとっては女とヤるだけで言うことを聞いて、守ることを考えなくてもいい女ができるわけだ」
ディアボロスは呆れればいいのか、それとも胸ぐらを掴んで殴ればいいのか、本気で悩んだ。だが、その苛立ちと殺気はすぐに察知され、青い髪の女が誰よりも早く身構えた。ディアボロスはそのまま動きを止め、ため息をつくと再び椅子に深く座った。
「子供の妄想じみた能力だな。その女も忠実な犬ってわけか」
その挑発的な言葉をタケルは鼻で笑った。
「もっとはっきりと、エロゲーかエロ同人みたいな能力だって言ってくれて構わないぞ? それに、俺の能力は従属させるだけで、別に意識や意思を破壊することはない。エリスも、マルリアも今自分の意思で動いてる。そっちの女騎士が無駄と知りながらもいつでも剣を抜けるようにしているのと同じことさ」
ディアボロスは驚いてネルラを見た。確かに、ネルラは少し腰をひねり、不自然に左の腰とテーブルとの距離を広げ、ペンはゆるく握り、左手は紙を抑えているのかと思いきや、テーブルを押せる体勢に留めていた。ディアボロスはネルラの左手に手を重ね、首を横に振った。
「エロゲーとかエロ同人というのが何なのかは知らんが、つまり、貴様が女を抱けば貴様に近い存在に変容し、この世界の枠にとらわれない魔術が使える、ということだな」
「その通りなんだけど……なんだ、エロゲーも知らないのか? オタク文化に疎いんじゃ、この世界に来たとき困っただろ」
「マリーがいたからな」という言葉を、ディアボロスはそっと飲み込んだ。この男にマリーの話は、例え知っていることだとしても話したくはなかった。
「ん、まて?それは俺もその形式に従えば魔術が使えるということか?」
「いや、それは無理だろ」
タケルは即答した。
「なぜだ?」
「あんたは元々神としても膂力一点張りの魔神だからさ。搦手すら使わないようなあんたが魔術なんか使えるとは思えないね」
そう言われてしまえばディアボロスとしても何も言えなかった。
「しかしそこまで膂力に差があるか?貴様も相当な力があるようだが」
「まさか。俺は加速して突撃してるわけで、組み合ったら勝負にならないさ。もっとも、あんたはその力が体に大きさに比例するわけだから今の状態じゃ大したことはないだろうけど」
「それは俺は本来はもっと大きくなる、ってことか?」
「ゴルダールとしては大きさは可変だったな。今は最小に近いだろ。どうやって、とか聞くなよ?俺には原理もわからんから」
ディアボロスは考え込んだ。その沈黙に、恐る恐るといった感じでノイラル公が割り込んだ。
「すまないが、そろそろ本題に入ってはどうだろうか」
ディアボロス、そして女騎士はどういうことかと訝しんだが、他の面々は理解しているようであった。タケルは苦笑いを浮かべ、ディアボロスに向き直った。
「そう、なんで俺がここに乗り込んだかってことだろう」
「……あぁ」
ディアボロスとしては次々と知識を与えられていることに満足してしまい、この男の意図などというものを探る考えはどこかへ行ってしまっていた。当事者ではないノイラル公やネルラにとっては、気になって仕方のないところであった。
「現時点でこの世界に上層世界から落ちてきたヤツは五柱いる。ただ、召喚されたのが五柱って意味じゃない。そもそも最初に初代ディエンタール王が呼び出したヤツはもう残ってない」
「殺された…? 貴様がやったのか?」
「とんだ言いがかりだ。ディエンタール王が呼び出した当初の術式は魔術に近いもので、上層世界の住人の力だけをまるごと持ってこようとした。が、どうしてもそれだと帯域が足りない。結果的に力の塊のような不安定な存在を呼び出すことになった。まぁ、そのかわりに完全に従属させることができたようだけども。とにかく、ディエンタール王はその力で覇道を成し遂げたものの、召喚した神はそのまま消滅してしまった。そしてディエンタール王は上層世界とのゲートを作って帯域を広げ、神そのものを召喚する方向に変えた。まぁ、理由はわからないけど、築いた国を守るためとかそんなところだろ。
けど、その術法は留めきれず、結果的に神を召喚する方法が流通することになった。そして魔術に対するロフコニア王子兄妹が別世界の人間の魂を同時に呼ぶことでその術を成功させた。それが俺だ。
俺は俺を従属させようとしたロフコニア王族と対立し、要求を飲ませた。だが、その戦闘に伴ってロフコニアの弟が国境を越えて逃げ出した。まぁ、俺が矛を収めるとは思わなかったんだろう。俺としては満足な結果になったが、弟のほうは亡命先で随分後になってから召喚を成功させた。
俺は新たな国を興し、そっちに移った。その数年後、ロフコニアでも新たに召喚がなされた。俺はそれを許さなかったし、敵対的な行為だと見做してロフコニアと戦争になった。結果、今ロフコニアも俺の支配下にある。
もう一柱はどういう経緯で召喚されたのかわからないが、ディエンタール王の由来の地と思われる場所で召喚された。
問題は、俺達の存在と、この世界の存在にある」
ただ、説明だけが続き、その状況が何を意味するのかは全くわからなかった。しかし、タケルは一度言葉を切ると何度か深呼吸をして、続けた。
「この世界自体、三千世界の端っこにあって、神によって雑に作られた世界だ。俺達の元いた世界を模してな。雑に構築された世界は世界を構成するための法則が整っていない。だから、短命に終わるしかない。そんな実験的な箱庭にいるのが俺達……神々に異端として狩られる立場だった連中だ」
ディアボロスもネルラも、説明に不穏な気配を感じていた。何を言っているのかはよくわからない。だが、嫌な予感で埋め尽くされるようだった。
「三千世界の端っこで、この世界を消し飛ばしても他の世界に影響が出ない。あんたは上層世界でも最強で、俺だって一騎当千だ。けどこの世界に送り込んだ後、この世界もろとも消し去ってしまえば連中の勝利ってわけさ」
誰も言葉を発しなかった。この世界が消える。それはどうすることもできない死の宣告であった。
「けど、実際にはこの世界を消し飛ばすためにはゲートを広げて、消し飛ばせるだけの帯域を確保しなくちゃならない。そこで連中との戦闘がもう一回あるってわけだ。まぁ、できればゲートを広げるってところ自体を防げれば何よりなんだけどな。 有力なゲートだったディエンタールはあんたが離れたから当面は問題ないだろ。けど問題は、ロフコニアの弟が支配してるタン・トルリオ王国だ。ロフコニアで召喚されたのはラッキーなことに元々俺と仲の良かったヤツで、協力関係にある。けど、タン・トルリオにいるのは炎の魔神で、敵対関係にある上に俺だと相性が悪くて勝ち目がない」
「なるほど。だから協力せよというわけか」
「あんただってこの世界が神々に蹂躙されるのは困るだろ?利害は一致してる」
タケルの言う内容は確かに有無を言わせないほどに正論であり、拒否する余地がないように思われた。だからこそディアボロスはタケルの言葉を素直に信じるべきかどうかという点で訝しんだ。
「悪い話じゃないはずだ。あんたからすればリスクも比較的少ない。もちろん、敵との戦闘があるにはあるが、交渉事や準備はこっちでやる。これでももう八十年は研究してるんだ。調べものはこっちでやったほうが早い」
「八十年?」
タケルはそれほど老いているようには見えない。というよりもむしろ若いくらいだ。
「そうは見えないってことか? そりゃそうだろう。神なんだから人間よりは長寿だ。まぁ、俺の女たちも抱けば長生きする。エリスはともかく…他の女はそうしなければ俺を置いて逝っちまうからな。それは、あんたも避けられない宿命だろ」
考えたこともなかった。だが、確かにディアボロスが神であるというのなら、寿命が違うというのは考えてみれば当たり前ということでもあった。ネルラたちは先にその生を終える、と聞いてディアボロスはやりきれない気持ちになった。一瞬、タケルに抱かせるべきだろうか、という考えがよぎった。絶対にない、とは言い切れない。それが長く共にいるために必要だと言うのならばそうするかもしれない。だが、タケルは抱けば従属させるのだと言った。そのようなことは避けて真っ当にその天寿を全うすべきなのだと自らに言い聞かせた。
「しかしそうすると、貴様は元は俺よりもずっと老人ということか」
「…………ん?」
タケルは軽く首をかしげ、引きつった笑いを浮かべた。
「なるほど? つまり、あんたは俺からすればずっと未来の人間ってわけだ。生まれた時にはスマホはもうあった、ってことか」
「スマホ?いや」
ディアボロスは首を横に振った。
「スマホは……いつ頃かは覚えていないが、もう大人になってからだったのは間違いない」
「おかしいな……スマホが出てきたのは俺が十代のときだった」
タケルは考え込んでトントンと机を叩いた。
「時空がねじれていて、召喚時の元の世界がいつだったかは関係ないのか? いや、そもそも同じ世界だった、って保証はないか。違う世界…あるいは、平行世界? くそっ、あんたが元の世界のことを覚えてれば検証できるのに。少なくともスマホはあったわけだし、同じ世界である可能性は高いな。平行世界であるとしてもかなり近似か……あんた、スティーブのことは知ってるか?」
「スティーブ?」
「有名なカリスマさ」
ディアボロスは考えこんだが、また首を横に振った。
「人の名前は……ほとんど思い出せないな。歴史上の名前ならいくらかは」
「そうか……まぁ、それはいい。とにかく、俺達はこの世界もろとも神に蹂躙されないために戦う必要がある。それはお互い様だから協力しようってことさ」
「……断ったら?」
「あんたがどうするのか次第さ。ただ、あんたの協力なしには炎の魔神に対する勝算は低い。あんたが戦死する可能性よりも、あんたが戦わずにこの世界が滅びる可能性のほうが間違いなく高い」
「…………」
ディアボロスは考え込んだが、タケルの言葉を検証する方法がなく、断ることはできないように思われた。
「いいだろう。どうすればいい?」
「賢明な判断に感謝するよ。とりあえず、今すぐは特にはない。俺と、ロフコニアのジャンは、不明の神との交渉をしなきゃならない。だからあんたはシトラスで女たちと過ごしていればいい」
「不明の神?さっきディエンタール王由来の地で召喚されたといっていた者か。俺はいいのか?」
「戦闘にいくわけじゃない。相手は俺達とも、あんたとも、そして体制側の神々とも違う中立の立場だ。別にいきなり戦闘になるようなことはない」
「どんな神なんだ?」
「あぁ、軽く紹介しておくか…… イチから行こう。まずあんたは脳筋型の巨人だな。力を発するとでかくなる、って特徴があるくらいで、あとはひたすら膂力だ」
「…………」
なんとなく愚弄されているような気がしてディアボロスはイラッとしたが、事実なのだろうとおとなしく受け入れた。
「俺は迅速の剣の神だ。速度と、あとはいろんな能力があるから小器用で手数で攻めるタイプだな」
「空を飛ぶのもそうか?」
「あぁ、いや、あれは空を飛んでいるわけじゃないんだ。跳躍力と反射速度があるから、小さな力場の壁を作ってジャンプしてるのさ。ちょうど、水泳の飛び込みみたいにな」
「ほぅ……」
確かに小器用だ、とディアボロスは思った。跳躍力と速度で突撃してくるし、それが凄まじい威力であることはディアボロスは身を以て知った。そこに「壁をつくる」という能力があれば、足場にすることも、防御に使うことも、あるいは相手自身の突進を利用した攻撃に使うこともできるだろう。
「ジャンは賢神テユコナだ。魔術師だけど、あくまで研究者だからな。戦闘は無理だ」
「うむ……」
この世界の魔術は制約が厳しく、実用的には使えない。だが、神の魔術ならば便利な能力たりえるのだろうか。
「中立なのはステンルヒアに住んでいるナナミだ。神秘の女神イリュシオスだな。戦闘的な魔術が使えるし、予見能力がある。ステンルヒアは北極みたいな場所だぞ」
「そんな場所に人が住んでいるのか?」
「この大陸は北極圏まで地続きだし、大陸といってもそんなに陸地は広くないからな。で、問題の敵が炎の魔神カルヨソだ。奴自身、カルヨソと名乗っているらしいから、元がどんな人間だったかはわからない。世界をまるごと焼き尽くしたことがあるくらい危険な相手だ。しかも残虐で好戦的。下手するとあいつによってこの世界が滅ぼされるかもしれない。元々体制側だし、あんたを追い出した張本人でもある」
「待て。それは俺が勝てるのか?」
「今のままじゃ無理だ。あんたは今は随分小さいし、力を上手く発揮できてない。ナナミとの交渉がうまくいったら、なんとかするつもりではいる。本来の力を取り戻すことと同時に、できればあんたの装備を見つけたい。俺が使っているのは俺の本来の武具だが……あんたは自分の武具をみつけていないようだからな。場合によっては、ディエンタールに行くことになるか……」
タケルは少し考え込んだ。
「結局、俺はどうすればいい?」
しびれを切らしてディアボロスが聞いた。
「いや、別にこれといったことをする必要はないさ。とりあえず、俺はまずナナミを説得してくるから、それまでは女たちと領民と好きに過ごしていればいい。いやでもそうだな……できれば力を取り戻してほしい」
「だからどうやって?」
「思い出すことが大事なのさ。あんたは今まで自分が何者かすら知らなかったワケだろ? だったら元の上層世界のことを考えてみなよ。それを思い出せれば、あんたの力についてもわかるはずだ」
結局のところ、タケルの目的はあくまでもディアボロスに共闘を持ちかけることにあったようだった。結局ひたすらにディアボロスたちに情報を与えた形であり、多くを払ったにも関わらず要求したのはあくまでカルソヨを倒す、ということに過ぎなかった。
当然にディアボロスはタケルの真の意図を疑った。だが、少なくともタケルの今日の行為がディアボロスに対する奸計の類であると読むことができる材料は何もなかった。そうなると、タケルの動機として考えられるのは、言葉どおり世界の崩壊に対する危機であった。タケルはこの場に女をふたり同席させた。ディエンタールに襲来した際にはもっと多くの女を従えていた。ディアボロスとしても、自分が見初めた女たちに囲まれ、日々生きることは十分に幸せで守りたいと思えるものだった。その守りたいものが、世界の崩壊という形で奪われるということが解っていたならば、なりふり構わず抗おうとするかもしれない。飄々とした様子に見えるタケルだが、その実かなり切実なのかもしれない、と思えばディアボロスとしても納得できるところだった。
もちろん、この場で拒否する余地はなかったが、別れてしまえば別だ。言を覆して協力しない、ということは十分に考えられた。だが、そうしたところで、タケルが攻め込めばその戦力差は明らかであり、ディアボロスとして許容できる被害には留まらいなことは明らかだった。
(俺はもう、これ以上愛する女を失いたくはない)
その感情には、愛の真偽などどうでもよかった。
ディアボロスには依然として不信感があった。女たちを従えているのは力である、と考えるほうが、ディアボロスとしてはずっと納得しやすいし、思い悩むこともないように思われたからだ。だがそれは、愛に、男と女の関係に思い悩むことから逃れたいという思いと、愛を信じて裏切られることへの臆病さに過ぎなかった。そしてそんなことはディアボロスとて解っていたし、それでも尚、できることならば真実愛されているからこそ日々共に過ごすほうがずっと良いのもまた事実であった。むしろ、それが真実でなければとても許せないような気持ちさえあった。
だが、その真偽がどうあっても、ディアボロスは女たちを失っても構わないという気持ちには到底なれなかった。偽りの愛を語る女たちに騙されながら共に過ごす日々と、彼女たちを失って孤独に生き延びる日々のどちらかを選ぶのなら、偽りに気づかないフリをしたほうがずっとマシだった。それは、例え己がたやすく焼き殺されるような恐ろしい相手との対峙と引き換えるのだとしても、あるいはそれさえもが甘言に過ぎず実のところ世界の崩壊などというものがないのだとしても、世界と共に失ってしまうと言われればそれを座して待つことなど到底できそうにないのだった。
必要なことを告げるだけでタケルは席を立った。去り際、タケルは一言
「エリスが憎いか?」
と訊ねた。
「今すぐ殺してやりたいほどにはな」
ディアボロスは答えた。
「やるつもりか?」
タケルはまるでどこか遊びにでも行くかと訊くくらいの気安さだった。
「そのつもりはない。アルセエリス以上に……俺は俺が憎い」
ディアボロスが答えると、タケルはそれ以上何も言うことはなく女たちを引き連れて立ち去った。
ノイラル公は怒涛の展開に放心状態だった。
「本当にすまなかった。本当に何も知らなかったのだが」
「別に疑ってはいない」
ディアボロスもため息をついた。いなくなってわかる、凄まじいプレッシャーだった。牙を剥けばどうなるかということがあまりにも分かりすぎてしまう。ディアボロスと対峙したディエンタール王の心境がわかるようであった。
「今まで経験したことがないほど生きた心地のしない時間だったが、収穫は大きかった」
げっそりと疲れ果てたノイラル公だが、その顔には充足感も見えた。
「公爵、貴様はなぜこの件に首を突っ込む?目的はなんだ?」
「目的、か……」
ノイラル公は手を組んで少し考え込んだ。
「一番は、この世界の真理を知りたい、という好奇心だよ」
フッ、と笑って口にした。
「それでも建前を取り繕うなら、この世界に蔓延る不穏な空気の正体を知ることだ。ディエンタール王の台頭はこの世界の歴史の中でもあまりにも唐突で奇異な出来事だ。そしてそのディエンタール王が到底人とは思えぬ者を呼び出し猛威を振るった。この世界の根幹を揺るがすような何かがある。そう思っていたのだが……」
ノイラル公は言葉をつまらせた。嫌な予感が現実になってしまった、というより他になかった。
「確かに、もう夢だ妄想だと笑うことはできなくなってしまいましたね」
ネルラが言葉を継いだ。そして、そこでは終わらなかった。
「でも大丈夫です。我が君はどんな神にも悪魔にも、運命さえも敵ではありませんから」
不安など、まるで見えない妖艶な笑顔だった。
扉をくぐり、長い山道を下り、見送る騎士の姿が見えなくなると、ネルラはその場で膝をついて頭を垂れた。
「申し訳ございません!」
ディアボロスはその姿を睥睨し、沈黙に沈んだ。ネルラは肩を震わせ、ただただ頭を垂れた。どれほどの刻が経っただろう。ディアボロスはネルラの体を抱え上げ、まるで赤子のように抱きしめた。
「嘘はついてくれるな。隠し事はしてくれるな。今この場で誓え」
体を震わせていたネルラは、ぎゅっとディアボロスに抱きつき、そしてしがみつくように力を込めた。
「はい……はい、閣下…! どのようなことも、私の知る限り、私の生きてきた限りの全てを、お伝えします。私の全ては閣下のもの。そこに一切の嘘偽りはございません…!」
ネルラの悲壮さに反して、ディアボロスは悲嘆に暮れてはいなかった。何を感じていたのか、そしてどうすべきなのか、ということを、何も言うまでもなく共有できている相手との未来を嘆く必要などどこにもないと思えたのだ。