マリーの亡骸の側でディアボロスは泣いた。何も憚ることなく泣き続けた。やがて悪魔が全て打ち倒され、アオカナとルシカが戻ってもなお泣き続けた。もうとうに日は暮れていた。
三人はひとまず雨風の凌げそうな場所で夜を過ごした。娼館へ行くことも考えたが、もし悲惨なことになっていたらと考えるとふたりの気持ちを思いディアボロスは思いとどまった。ディアボロスの体は、元の大きさに戻っていた。
朝になってもなかなか動き出せなかった。ディアボロスにとってはこの世界ではじめての、マリーが側にいない朝だった。
アオカナ、ルシカにとってもマリーの喪失はひどく辛いことであるのを見せていたが、ディアボロスを責めることはなかった。ふたりはマリーを失った経緯を話した。マリーが避難を勧め、危険を嫌ったアオカナがそれに反対した。結局はマリーに従うことになったが、最後に逃げようとしたマリーが潰れた宿から逃げ遅れた。
「わたくしがいけないのです……旦那様、どうぞわたくしを処断くださいませ……」
悲嘆に暮れるディアボロスを見てアオカナはそう言った。だが、
「アオカナは悪くない。悪いのは俺だ……」
ディアボロスはそうつぶやき、手の中にあるマリーが身につけていたペンダントを見つめていた。

ディアボロスの心痛が、ふたりには辛かった。外から見れば二人は生贄である。特に、王から直接に命じられ、最初に側にいて、拒み続けたにもかかわらずディアボロスのものとなったマリーはそうだろう。
ふたりもまた、ディアボロスのものになるということは、一方的な支配であり、身も心も捧げる義務を負っているだけで、ディアボロス自身はさしたる感傷も持ってはいないと思っていたのだ。珍しいことではない。嫁入りとは、割とそういうものでもあった。
だが実際はどうだ。ディアボロスは抜け殻のようにペンダントを見つめ、飲まず食わずである。ふたりがいくら話しかけても、気遣うような素振りを見せるだけで、まるで覇気がない。
なんとか食料と水を調達しようとしたが、もはや街は街ではなくなっており、水も死体に溢れた街の中にある水が安全だとは思えなかった。仕方なく、ふたりは半壊し、命の気配を失った建物から拝借した。

三日目の昼、三人の下に騎士が訪れた。王が呼んでいるという。アオカナは、ディアボロスが辛いのであれば行かずとも良いのではないかと言ったが、ディアボロスはマリーのことを報告しなければならないと立ち上がった。アオカナもルシカも、当然のようにそれに続いた。
「リクリエはどうした」
ディアボロスは騎士に問いかけた。
「…魔族との戦いにおいて勇敢に立ち向かわれ、戦死されました」
長い沈黙のあと、ディアボロスは「そうか」と呟いた。

王は玉座にいた。
「ディアボロス殿…」
その表情は疲弊しきっており、生気がなかった。
「先の戦闘における活躍、生き残った兵より聞き及んでおる。よくぞやってくれた。そして、魔族のものどもより街を守ってくれたこともまた、感謝しておる」
淡々と話す言葉には力がなかった。
「王よ。話が、ある…」
ディアボロスは、マリーの死について語った。そして、それが自分の責であるとも。
「そうか…………」
長い沈黙のあと、王は頭を振った。
「ディアボロス殿に責はない。ディアボロス殿が守らなければ、この国の誰も生き残ってはおるまい」
長いため息。重苦しい空気であった。
「だが、申し訳ない。もはやこの国に、ディアボロス殿の要望に応える力はない。その獅子奮迅の活躍に応えることもできず、本当に、本当に、申し訳ない……」
ディアボロスは黙っていた。なんと応じるべきか、頭に浮かばなかった。

「では、ディアボロス様はこちらで引き受けてもよろしいでしょうか」
突如として女の声がした。顔を突き合わせて沈んでいた一同はその存在に気づいていなかった。視線が集まる。
「ネルラ…」
それは、夜の宿に現れた、白金の髪を持つ異国の女だった。
「貴殿は…」
「私はノイラル公国、公室つき内政騎士、ネルラ・フロン・アンティウムです。当然のご無礼、失礼致します」
ディエンタール王の問いかけにネルラは恭しく膝をつく。目を細めた王は、心なしか力が戻ったようであった。
「なるほど。貴殿が例のノイラル公国の…」
どうやって入ったのか、とディアボロスは思ったが、考えれば既に城壁すらなく、警備と呼べるようなものもなくなっているので不思議はなかった。それに、手続きを踏んで入ろうにも、もはや声をかけるべき衛兵もいないのだ。
ネルラはいつものように堂々として、どこか超然としているようであった。だが、ディアボロスはほんの少し、その強張った頬を認めた。
「我々に引き止める材料は何もない。ディアボロス殿次第だ」
溜息とともに王はそう答えた。この状況に対して動揺した様子はなく、深い思慮の末に詰みを再確認した、という様子であった。
「……考えさせてくれ」
ディアボロスは、そう言うのが精一杯だった。

沈黙と重苦しい空気に包まれた謁見の間を辞して、一行はディアボロスのために用意していたという館に向かった。まだ用意はできていない、と言っていたが、十分に過ごせそうな大きく、豪華な館であった。
「ネルラが来た、ということはもう条件が揃ったということか?」
そう問いかけたディアボロスの手に、ネルラはそっと手を重ねた。
「私の前で、お辛い気持ちを押し殺そうとする必要はありません。私は、あなたの味方、あなたのものですから」
そう言って微笑みかけた。不意のことに、ディアボロスはまた涙を溢れさせそうになった。
「条件については、ほぼ。状況を察して飛んでまいりましたので、万全にというわけではありませんが、まだ至らない部分でも、納得していただける程度には進んでおります」
自信たっぷりであった。ネルラがそういう人物なのだとも感じたが、それだけでなくノイラル公国がそれほどの機動力をもった国であるということなのだろう。それはとても好ましかった。
「俺にとっては、ネルラについていくのにまずい理由はなにもない。だが……それは、この国を見捨てることになる」
街の形も失い、生命の気配がないほどに虐殺され、城も廃墟となり、もはや復興など可能かどうかは怪しいものだが、それでももはや風前の灯火の国であれディアボロスがいれば侵攻は防げる。それだけの力がある。だが、いなくなればこの国は生き残れない。だが、
「ご安心ください。それについてはディアボロス様が来られるのであれば、追って当国より同盟の提案を行う手筈となっております」
もはや恐ろしく感じるまでの優秀さだった。
「もはや否はないな。出立は…」
「今日はやめたほうがよいでしょう。そちらの女性方もお疲れのようですし、一日を争うことではありません」
「そうだな…」
ネルラの配慮と提案は完璧であるようにディアボロスは思った。否定する余地はない。考える頭を損ねた今、しっかりと考えて提案され、承認するだけで良いというのは歓迎するところであった。
こんな時ではあるが、またしても「支える」という立場を取られてしまったアオカナがいささか膨れていたことを、ディアボロスは完全に見逃していた。

街に買い物に出ると、この国の現状を改めて痛感した。
建物は壊され、そこらじゅうに死体が転がる。広場にすら人の気配はない。むしろ、生きている者はいるのだろうかと思う状態であった。そしてこの状態では疫病の恐れもあった。
「埋葬してやりたいが、途方もない話だ」
ディアボロスはそう呟いた。骸は老若男女問わず、ただ殺したというだけではない無残な姿で転がっていた。悪魔には人間に対する憎悪でもあるのだろうか。引き裂き、食いちぎられ転がった骸を壁に塗りつけといった様は、よほどの憎悪か、もしくは悪趣味の塊に見えた。
それを眺めながら思案していると、ディアボロスに向かって走ってくる小さな影があった。ディアボロスが助けた少女である。
「あっ、あのっ…」
息を切らしながら喋ろうとする少女は咳き込んでしまった。そんな様子を見てディアボロスが認識したときには、ルシカがその背中をさすっていた。
「大丈夫、落ち着いてから話そ?」
そんな風に話しかけるルシカの姿は、ディアボロスにはやや意外に映った。ルシカはあまり社交性がなく、相手が屈強であるか否かによらず小心で消極的、というイメージを持っていたのだ。だが、そんなことはなく、少女が咳き込んだのを見て素早くしゃがみこんで背中をさすった。そんな驚きをもってルシカを眺めていると、息を整えた少女はおずおずと切り出した。
「この国を出ていくって、ほんと…?」
誰に聞いたのだ、とディアボロスは問い詰めたくなったが、ぐっとこらえ、
「そうだ」
とだけ答えた。少女は顔をしかめ黙り込んだが、やがて意を決したようにディアボロスの服を掴んでこう言った。
「あたしも、つれてってくださいっ」

食料調達も難しい事情を鑑みて、結局翌日には一行は出立することとなった。同行を申し出た、ディアボロスに助けられた少女――名前はティシャという――は元より身よりもないということだったから、ディアボロスとしても見捨てがたいということで同行を許すこととなった。
ノイラル公国への道は途中ミュットランダル帝国領を通ることになるが、街道を通るだけであれば税を払うだけで比較的自由であった。
馬を飛ばせばなんとかその日のうちにつくというが、馬はネルラが乗ってきた一頭だけ。ディアボロスが馬に乗るのはいささか不安もあったため、女四人の疲労を減らすべく交互に乗せた。当然ながら、主にはティシャを乗せることになった。
その旅路で、ディアボロスはネルラにこれまでの経緯を語った。ネルラはディアボロスの一言一言に強い共感を示し、怒り、悲しみ、涙した。ネルラのことを不敵で堂々たる女と見ていたディアボロスだったが、その暖かさにいくらか心も癒えたようだった。
道中に不穏なことは特になく、ただネルラとティシャを交えてこれまでのことを語る程度であった。
正しくは、道中モンスターに襲われることは何度かあったのだが、ディアボロスの戦闘力があれば飛んできた虫を払う程度のことで壊滅させられるため、「何事もない」旅路であったと言ってよかった。その分、ディアボロスが悲嘆に暮れた顔で押し黙っていると重苦しい空気になり、ネルラがディアボロスに言葉を吐き出させ、その心を解きほぐしつづけたことは、アオカナ、ルシカも助かったと感じていた。

「それにしてもその男、気になりますね。何者なのでしょう」
宿につき、落ち着いてからネルラがそう口にした。誰かに聞かれたくない話だったのだろう。
「わからん。少なくとも普通の人間ではなかった。あの魔王より強いのは確かだ。俺と同等…いや、それ以上かもしれん」
ディアボロスはその瞬間を思い返す。悪魔をアルセエリスに叩きつけ、無防備となったアルセエリスに向けての突撃。確実にとったと思った。間違いなく集中していた。油断した覚えはない。
だが、ディアボロスが叩きつけられたのは、跳躍した地点より後方であった。ディアボロスは 前方から 攻撃されたのだ。だが、その事態は全く捉えられなかった。
ディアボロスはそのパワー、瞬発力、そしてそれによって発揮される速度が武器である。そしてその速度が有効であるのは、その速度においても何が起きているのか正確に捉えられているからこそだ。そのディアボロスがまるで捉えられない速度を持つ攻撃は、奇襲を受ければ防ぐ方法は全くない。あの男との戦いにおいて、為すすべもなく一方的に攻撃を受ける姿は想像に容易かった。しかも、あの男は明らかに自身になじんだ武器を持っていた。ディアボロスは現在に至るまで、まともに用に耐える武器を見つけられていない。だからこそ自身を肉体を中心に考えて戦っているのだが、その膂力を前提とした上で、常人にとっての武器と同じ意味をもたせられる武器を持つことができるとすれば、あの男は訓練された兵士、ディアボロスはただの素人で丸腰の男、という図式すらありえた。
「少なくとも敵対的ではない、ということでございましょうか」
アオカナが問うたが、ディアボロスは首を横に振った。
「戦意がなかったわけではない。あの男は俺がアルセエリスを渡さないと言っていれば、戦う意思だったのだ。明確に殺意もあった。あの場ではあくまであの男はアルセエリスが目当てだっただけで、俺のことはどうでもよかったんだろう」
「魔王に執着する、というのは一体どういうことでしょう。何か因縁でもあるのでしょうか」
「さぁ。全くわからん。あの男に関しては何もわからんという以上には言いようがない。強いということはわかるが、どれほど強いのかも、何者なのかも、何が目的なのかもだ。今の段階では強くならなければならない、ということしか分からん」
「……そうなんでしょうか…」
ネルラに答えたディアボロスの言葉に、ルシカが小さくそう漏らした。
「…何が言いたい?」
ディアボロスの問いに、ルシカは少し怯えた様子を見せて逡巡したが、結局は口を開いた。
「ディアボロス様は強いです。すごく。魔王も退けた今、ディアボロス様がさらに強くなる必要が、あるんでしょうか…」
「…………」
誰も何も言わなかった。ディアボロスは強い。何も恐れるものなどないほどに。それは確かな事実だった。白装束の男の登場によってその絶対性がいくらか揺らいでいることは否めないが、だとしてもアルセエリスがディアボロスに対する決定打を持たなかった以上、魔王ですらもディアボロスにとっては恐るるに足りない。それは事実なのだ。だが、
「いや」
ディアボロスは首を振った。
「マリーを失ったのは俺の弱さのせいだ。俺は強くならなければならない。強くなければならない。俺は、貴様らを失いたくない」
誰も何も言わなかった。アオカナは何かを言いかけたが、それでも口をつくんだ。

道中、何度かモンスターとの戦闘があり、中には近くにいた商人が騒ぎ出すようなこともあったが、結局のところ何ら脅威はない道行きであったと言って差し支えない。ルシカが言った通り、ディアボロスの恐るるべき敵などなかったのだ。
だが、その事実はディアボロスの心を何一つとして癒やさなかった。ディアボロスが恐れているのは、強大な力に自信が打ち倒されることではなかった。ただ、ディアボロスがマリーを失ったという事実を覆すために力を欲した。
だが、現実は皮肉にも、自分の戦闘に女の死の影を連想するほどにディアボロスの振るう拳は鈍り、なんども振り返った。そして、何度もモンスターに角を、牙を立てられることとなった。その危うさに、ネルラ、アオカナ、ルシカが不安がり、三人が不安がっているのを見てティシャが不安がるという事態だった。
そしてそんな隙を突いてモンスターが女に接近したことより、ディアボロスはさらに慎重に戦うようになり、その慎重さが仇となって易々と通り抜けられたはずの道で足止めされた。足止めの結果夜を迎え、さらなる危険を招くことにもなった。
うまくいかず、女を危険に晒していることにディアボロスは苛立った。その苛立ちを女たちは恐れた。

「おぉぉ…これは…」
噛み合わない旅に空気を悪くしていた一行だが、ようやくノイラル公国に到着し、そこからさらに歩き続けてディアボロスの領に案内されると、ディアボロスは感嘆の声をもらし、アオカナとルシカは呆気にとられ、ティシャははしゃいだ。
「いかがでしょう。ご期待に添えるよう、全力をつくしたつもりですが」
いつも自信満々なネルラも、いつもよりいささか得意げであった。だが、それも納得である。文明の発展と衛生には深いかかわりがある。だからディエンタールでの日々においてディアボロスが最も辛かったのは「衛生的でない」ということであった。だからこそノイラルに対してディアボロスが要求したのが水洗トイレである。だが、それでもノイラルに対してそこまでの期待はしていなかった。それが、石畳が美しく、路地は整えられ、整然とした街は人の笑顔が溢れ、活気がある。ディエンタールもそれなりに平和で人々が明るい国だと思ったが、それと比べても随分と近代的というか、旅行雑誌に「中世の面影を残すヨーロッパの田舎町」のどと言って写真が出てきても違和感がないようなものになっていた。まずもって臭気が全く違う。
「居城にご案内いたします。もとはノイラル公とも懇意にされていたフォランタ公の領でしたが、二年ほど前に腰を痛められて隠居され、この城も管理する者がいなくて困っていたのです。フォランタ公はきれい好きで、他国や昔の文化にも関心のある方でしたから、ディアボロス様のお話をお聞きしたときにまさにうってつけと思ったのです」
「この話、フォランタ公はなんと?」
「ぜひ庭の花の世話をしてやってほしいと」
ディアボロスははしゃぎすぎて何度も転びそうになっているティシャを肩に乗せ、ゆっくりと景観を眺めながら歩を進めた。
「見ると聞くとでは本当に違うものでございますね。数日を経た場所にこんなにも違う世界が広がっているなどと、想像さえしたこともございませんでした」
普段は感情の読めないアオカナも、いくらか頬を緩め、笑みを浮かべて町並みを見ていた。
「アオカナは帝国の出身ということだが、こうした町並みではないのか?」
アオカナは思い返すように、感慨を噛みしめるように目を細めて町を眺めた。
「まるで別物でございます。ディエンタールと比べれば、いくらか機械など優れているところもございますが、美しいにはほど遠く、いつも緊張感のある国でございました」
ルシカもまた初めて見る光景に、いつもよりも幼い少女のような表情を見せていた。
「帝国は国力が高く、人口も多いので、階層化された軍による管理を行っており、末端の予備兵が横暴な態度を取るという問題があるようです」
ネルラが解説した。
「帝国とこの国でそんなに違うのか?」
「ノイラルは僻地にございますし、帝国のように戦争も多くはございません。軍の規模は小さいものの練度が高く、裕福ではないものの土地を大事にする領主が多く民衆との距離も近いので、良い国だと私は思っております」
ディアボロスが領主として治めるとすれば、当然ながら現代的な、文化的水準が高いほうが対処はしやすい。蛮族の国では統治しようにも変えなければならないことが多すぎる。そうしたことを思えば、平和で過ごしやすく、治めやすい国であるように思われた。

地方領主の城であるから、当然にしてディエンタールのような大きな城というわけではないが、想像よりは大きな城がディアボロスにあてがわれた。そしてそれ以上に驚いたのは、既に城はそのまま運営できる体制が整っていることだった。
ディアボロスが内政に通じていないことを踏まえ、ディアボロスの補佐にはネルラと、フォランタ公を補佐していたという老人のキルダスがつき、さらに外交、内政、生産、交易、農業、国内外交をそれぞれ専門とするものが各一名つけられた。さらに、ディアボロスの護衛を担う騎士は十四名。城内に勤務する兵士は計九十名で、兵士全体では二百五十名ほど。さらに城の運営を支える侍女が十三名と、地方領とは思えないほどの充実ぶりであった。
「元からこんなに大所帯なのか?」
ディアボロスはざっと書類を確認し、新しい臣下の顔を見ながら訊いた。文字はまだ読めないため、ネルラに全面的に頼ることとなっている。
「はい。ここは最北の国フェルストガルムと隣接している、という事情もありますが、それ以上に本城に問題が発生した際に支援体制を敷くため、他の領地よりも国として多くの支援を行っています。ここはもとは帝国の対フェルストガルム用の城塞でしたが、ノイラル公が独立した際に国境を引き受けることとなり、ここを国の拠点として再整備し、フェルストガルムとは友好関係を築くことで体外的な拠点というよりも国内の拠点として活用する位置づけに変更されました。そこを任せる、という意味でフォランタ公を当地領主としたという面もあります」
臣下の顔はいずれも覇気に満ちて明るかった。ネルラによれば、特に優秀な人物で固め、メンバーはこの領の有志、元フォランタ公臣下、そしてノイラル公の人選による派遣から構成されているという。
「ここはフェルストガルムとの国境に面しているというだけでなく、資材や財産などの備蓄も多く、これはこの領地が国の金庫の役割を担っているということです。さらに、研究者や魔術師など、国にとって重要な人物を城下に住まわせています。東西に険しい山があり、北はフェルストガルムに面してはいるものの逆に言えば北にはフェルストガルムしかありません。南にはノイラルの国土が続いています。この国にはこれ以上最後の砦となるべき場所に適したところはありません。ディアボロス様にはここの守護をお願いしたいのです」
ディアボロスは納得した。ディエンタールからディアボロスを得る目的がこの領を守護させるためだけとは考えがたいが、後門が堅ければ国の運営は非常にしやすいだろう。防衛というものは端、隅にあるほうが行いやすい。ノイラルにとってここは後門であり、ディアボロスがここにいる限りノイラルの本城は隅に配置されているということになるのだ。
「戦争に行かせようというつもりはない、ということか」
「そのような話は聞いておりません。もっとも、私はディアボロス様にお仕えすることになりますから、今後ノイラル公の意向を知るのは難しいのですが」
なんにせよ、ディアボロスとしては積極的な侵略行為に加担しようという意思はなかったので、都合の良いことばかりであると思えた。
「それで、体制自体は理解したが、アオカナたちはどうする?」
「アオカナ様とルシカ様は后妃として、ティシャ様は姫として扱われてはいかがでしょうか。」
「一夫多妻制なのか?」
「いいえ。しかし、民衆は閣下は人ではないと認識しておりますので、さしたる問題はないかと。元来、神は好色なものですし」
「…で、ネルラ自身は?」
「閣下のお心のままに」
そう言うとネルラは敬礼した。なめらかなその動きに、ディアボロスははじめて妖艶さを感じた。
少し胸が高鳴ったが、今はそのような場合ではない。臣下が期待に満ちた眼差しを向けている中だ。
「ではまず卿らに最初の質問をしよう。喫緊の課題がある者は挙手せよ」
ディアボロスが呼びかける。これには誰も応えなかった。
「いいだろう。では次の問いだ。俺は今この地に就いた。この国のことについても、今ネルラが語った以上のことは知らない。これを踏まえ、俺がまず取り掛かるべきことを知る必要がある。グロンサ!」
「ハッ!」
外交官が敬礼を返した。ディアボロスはじっと外交官を見つめる。間に緊張が走った。
「フェルストガルムとの状況を簡潔に説明せよ」
「ハッ! フェルストガルムとは良好な関係を保っており、緊張状態にはありません。先日、フォランタ公が退任され、閣下を迎えるにあたり警戒はあったようですが、フォランタ公とネルラ様が閣下を戦力としてではなく、その叡智に縋ったものであると説明いたしましたところ、納得いただけた模様です」
「なるほど。では次はクレトラ!」
「ハッ!」
今度は内政官に呼びかけた。
「城内、城下の状況について報告せよ」
「ハッ! 現在領内の人口は約四千。今年に入って盗みによる騒ぎは一件もなく、平和そのものです。今年は天候も安定しており、豊作で農作物の心配もありません。城内も今のところ問題はありませんが、今回人員が大きく入れ替わりましたので、元々この城に勤めていた者との間ではまだ打ち解けていない模様です。城下で今最も話題なのは閣下について、次いで話題なのは当領地イチの美人と評判のシルセナが冴えない男と噂のバンフラと結婚したということです」
「なるほど。平和そのものだということはわかった。よし、ではモサチオヌ!」
「ハッ!」
「国内情勢を報告せよ」
「ハッ! 現在、国内に不穏な動きがあるとの情報は入っておりません。閣下の就任に異を唱える者がいるとの報もございません。公爵閣下に関しましては、折を見て閣下に話を聞くつもりであるようです」
「よし、わかった」
話を切ると、ディアボロスは再度間を見渡した。気になることは数多くある。だが、いきなりそれら全てに取り組むのは無理だろう。ここまでしっかりと「領主」をすることになると想定していたわけではないため、ディアボロスとしても考えをまとめる必要があった。
ディアボロスは今、領主なのだ。利用せんという悪意と、ディアボロスのあまりの力に恐れをなしたディエンタールの者とは違う。この国のものは皆純朴であり、ディアボロスを純粋に招きに応じてくれた守護神であると信じているのだ。
ディアボロスはゆっくりと立ち上がり、両手を広げた。立たせていた臣下は、それに応じて皆すぐに膝をついた。
「貴殿らの意思、心はしかと受け取った! 俺は今日よりこの地を守護する。この地を汚そうとする者が指一本触れることを許しはしない! それだけではない。この地は良い地だ。それは間違いない。だが、文明とは豊かに、安全に、快く過ごすことを可能にするものだ! この身に宿る叡智をもってこの地をこの世界のいかなる場所よりも、暮らしやすく、素晴らしい地とすることを約束しよう!」
皆膝をついているので反応はない。だが、ディアボロスには確かな手応えがあった。
「俺はこれより今後の方針を考える。それにあたりさらなる情報が必要なとき、貴殿らを呼ぶことになるだろう。本日は城内に留まり、城内での所在を明らかにしておくように!」
「「「ハッ!」」」
返事が唱和された。
「ネルラ、寝所へ案内せよ」
「はい、わかりました」
顔を上げるとネルラは妖しく微笑んでいた。

「肩がこる」
寝室に入り、女たちだけになるとディアボロスは早速にぼやいた。
「ご立派でございましたよ」
座り込んだディアボロスに、アオカナがしなだれかかる。最初肩に手を伸ばそうとしたが、少し高かったようだった。代わってルシカがベッドの上に上がり、ディアボロスの肩を揉んだ。
寝室はかなり広く、ベッドはとても大きかった。
「執務室ではなく寝室なのですね」
ネルラはからかうように笑いながら衣を解いていった。
「そのつもりがないわけではないが、それはさすがに急きすぎているぞ。執務室が用意されていると確信できなかっただけだ。この部屋を出れば俺は主君として振る舞わなければならないわけだ。これは息が詰まる。この部屋にひきこもりそうだ」
ディアボロスが止めたものの、ネルラはそのまま下着姿となってアオカナとは反対側に座った。
ディアボロスはひどく息苦しさを感じていた。これは望んだもののはずである。立派な領地、善良な民、最低限文化的な暮らしを手に入れ、美しい女たちを侍らせている。なんの不満もないはずだ。この世界に来て望んだものは手に入ったと言っても過言ではない。
だが、幸福には感じられなかった。女たちを好きにできて、女たちも少なくとも表向きには好意的に接して来る。だが、ひどく違和感があった。女たちがここにいて、こうして好きに触れているにも関わらず、どこか違う世界に切り取られているようであった。
その違和感が孤独だと感じたときには、もはや手遅れだった。
マリーは怯えたり、蔑んだりしながらも、ディアボロスがこの世界にきたその日からいつも一緒にいた。マリーのいない夜はなかった。常識も、感覚も、文化もまるで馴染みのない、知識も共有できない、そんな世界にひとりきりとなったディアボロスは、いつでも握りつぶせるようなか細く取るに足らない生命だと侮っていたマリーに、どれだけ依存していただろう。きっとマリーがいなければ、ディアボロスはただただ不安をかき消すように、強がり、戦い、蹂躙することで己の安住を確認していたに違いないのだ。
マリーがいたから、この世界で「生きる」ことができた。なら、これからはどうすれば良いのか。
違和感はどこまでも膨らんでいく。
マリーを失って、ディアボロスはずっと嘆き悲しんだ。アオカナもルシカも、ずっとそれに寄り添っていた。だが、ふたりの感情はなんだったのか。なにを思ってふたりはディアボロスと共にいたのか。
ディアボロスは、共にマリーの喪失を悲しんでいたように思っていた。いや、そう思いたかった。それが事実でないことはとうに気づいていた。アオカナには、自責と、怯えが。ルシカには、心細さと恐怖が。そしてなによりも、その目には、ただひたすら困惑が広がっていたのだ。
ディアボロスがこれほどまでに悲しむことが。人の死を。マリーの死を。自分の女の死を。悲しむことが、ふたりにとって受け入れがたいのだ。
ならなぜディアボロスは、ネルラにすがらないのか。一言一言に深くうなずき、マリーの死の下りでは涙さえ流し、いつもディアボロスを気にかけるネルラなら、たとえみっともなくその悲しみをぶつけたところで受け止めるだろう。
だが、ディアボロスはそうしなかった。それどころか、ネルラにその心情を告げることを恐れて、ただ淡々と、事実を並べていただけなのだ。
もう、ディアボロスは気づいていた。
ネルラはディアボロスの話に感情を見せた。それは、「ディアボロス様が悲しいから」「ディアボロス様が苦しいから」。
誰もディアボロスを責めなかった。マリーの死は、仕方のないことだと言った。
そうだろう。だからディアボロスは苦しいのだ。この世界において、女というものは、命というものは、そういうものだから。
ディアボロスは、歴史が好きだった。いろんな国の、いろんな事柄の歴史を色々と覚えようとしたものだ。だからとっくに知っていた。ディアボロスのいた世界とて、命が重くなったのは現代に至ってよりももっと後の話だ。近代から現代に至っても、命というものはとても軽かった。それより前には、命を失うことに特別な感慨なんてない、それどころか自分の子供の命の選別すらもさしたる感情の起きないことだったのだ。権力者であっても他者の命は、その血縁であっても軽かった。ましてろくな労働力たり得ない子供や女の命などもっと軽かった。体や心を蹂躙されることが悲しいことだと思われるようになったのなど、現代に至っても十分とは言えない。むしろ、大した労働もしない命が報酬として扱われるなら、価値が生まれてよかったとすら思われただろう。否、現代においてすら命は軽いのだ。未来からみれば現代は、命も人格も、人を人とも思わぬ扱いをしてきたものと見られることだろう。
そして、この世界が中世程度であれば、中世における人権意識や命の重さの価値観を現代の者が受け入れられるはずもない。ディアボロスとこの世界の人々の間には根源的な価値基準に相違がある。ディアボロスがどれほど傲慢かつ残虐に振る舞ったつもりでも、それは大したこととは思われないのかもしれない。
神話の巨人の勇敢なる活躍に女がひとり犠牲になった。そんなことを気に留めるはずもないのだ。
ふとディエンタール国王の憔悴しきった顔が浮かんだ。マリーを失ってこの世に絶望するほどに苦しいのだと話したら、マリーはなんと言うだろうか。

「……………様? ディアボロス様!」
ふと呼びかけに気づいてディアボロスは顔を上げた。ルシカが心配そうにディアボロスの顔を覗き込んでいた。ディアボロスは微笑んでみせた。が、それは随分と力ないものになった。
「どうした?」
「あの……ぼんやりされていたので、心配で……」
周囲をみると、アオカナもネルラも、随分と不安そうな顔をしていた。ティシャに至っては、もはや泣きそうだ。
「いや、なんでもない。少しぼーっとしただけだ」
そう言って首をふったが、すぐに先程の思いがディアボロスを飲み込まんとしてくる。
「…………いや、」
ルシカがディアボロスの手を両手でぎゅっと握った。アオカナはしなだれかかるというより縋り付くようになっていたし、ネルラはじっとディアボロスを観察している。
「お前らは、マリーの死について、どう思っているんだ……」
ルシカがはっとしたように目を見開いた。アオカナは、しがみつく腕に少し力を込めて俯いた。
「……マリー様のことを、考えてらしたのでございますか……」
そうだ、と言うべきか、違う、と言うべきか、ディアボロスは迷った。確かに、考えていたのはマリーのことだが、実際に心を痛めているのがマリーのことかと問われると、そうであるようにも思えたし、失ったのがマリーではなかったとしても、誰も死を悼まないのだとすればやはり同じように苦しんだようにも思えた。
「旦那様はマリー様を愛されておいでなのでございますね」
アオカナは寂しそうにそう言った。
「それは違う!」
思わずディアボロスは怒鳴った。あまりの声に、ティシャがふらついて尻もちをつき、ディアボロスは手を伸ばしてティシャを抱えた。
「お前らのことを差し置いてマリーを思おうなどというつもりは毛頭ない。そうは思ってほしくない」
だが、続く言葉が出なかった。沈黙。すると、ルシカが腕を伸ばし、ディアボロスの首に絡みついた。そしてそのままティシャを乗り越えるようにして体を持ち上げると、ディアボロスの唇に接吻した。
「言わなくていいです」
ルシカが笑った。泣き出しそうな笑顔だった。
「ディアボロス様は、一緒に悲しんで欲しいんですよね?」
その言葉の意味を理解するのに、いくつかの間を要した。意味を理解すると、ディアボロスは溢れそうになった涙を隠そうと上を向こうとしたが、ルシカがそうはさせじともう一度接吻をした。
「ディアボロス様は誤解をされています」
今までにない強気なルシカだった。ディアボロスはルシカがそうした女だとは認識しておらず、目をそらせなくなってきていた。
「以前にも申し上げたはずです。私はディアボロス様のおそばにいさせていただきたいのです。他に行くところなどありません。他に行きたいところもありません」
ルシカは睨みつけるほどに強くディアボロスを見つめた。溢れる涙から目をそらしたいディアボロスに対して、それは許さないと言うかのようだった。
「ご主人さま。私は、ご主人さまを愛しているのです」
それは宣告だった。告白などという甘いものではない。わからず屋のディアボロスに向けられた、愛の宣告。
「私に望むことがあるのに、本心を隠されるなどと私にとっては恥も良いところです。私はご主人さまのものだというのに、その程度にも頼っていただけないなんて自分が情けなくなります」
ルシカはまた口づけた。それも甘さはなかった。
「何度でも言います。私はご主人さまのものです。なんでもします。だから、ご主人さま。私に望むことを、望むとおりに言ってください」

「ここでふたりだけの世界に入るのは、どうぞおやめください」
どれだけ見つめ合ったのかなどすっかりわからなくなっていたが、ディアボロスがルシカ以外の存在を意識から失っていたのは間違いなかった。割って入ったアオカナに、二人共がびっくりしてしまった。
「旦那様、わたくしのことをお忘れにならないでくださいまし。それは、ルシカが旦那様を深く愛していることはわたくしも存じているのではあります。ルシカはとうに、旦那様以外のことは目に入らないようでございましたから。ですけれども……」
アオカナはぐっとディアボロスの体を引き寄せた。ルシカは少し不満そうにしつつもディアボロスの体から降り、ネルラも絡みつくのはやめた。
「わたくしとて、ただ旦那様に命じられるままというわけではないのでございます。旦那様は察しの良いお方でございますから、旦那様に身請けされた際には、致し方なくという面があったこともきっとお気づきなのでしょう。ルシカやティシャに甘く、わたくしには些かそっけないのもきっと、それ故のこと。けれども、いつまでもそうではないのでございます」
ぐっと体をひきつけて見つめる。気迫のこもった真剣な眼差しであった。
「いつまでも除け者にはしないでくださいまし。わたくしも旦那様のもの。マリー様を失った傷は癒せなくとも、マリー様の代わりになれなくとも、マリー様に負けないほどに、旦那様の支えとなりたいのでございます」
アオカナの視点はルシカとは明らかに違った。マリーを失ったことがアオカナにとっては寂寥であると同時に、ライバルの脱落であることを感じさせたのは、アオカナが人気娼婦であったことを強く滲ませるものであり、逆にいえばディアボロスの心持ちに共感し、ディアボロスに歩調を合わせようとするルシカは娼婦としての成功にはあまり向かないようであった。
ディアボロスはその大きな手をアオカナのあたまに乗せると、くしゃっと撫でた。そのまま指を滑らせて背中を撫でると、アオカナを抱き寄せ、髪をなでつけ、背中を撫でた。
「ふふっ…」
何かとディアボロスが見ると、アオカナはもぞもぞと身を捩らせ、ディアボロスの腕から顔を出した。
「こんなふうにしてくださるの、わたくしを抱いたあと以外では初めてでございますね。ちょっとくすぐったいような、胸がもぞもぞする感覚でございます」
ディアボロスは呆気にとられアオカナを見つめていたが、やがて手を頭に戻し、なでつけた。手が頭に乗るたび、アオカナは少し目を細めた。
そうしていると、ぐっと服を引かれてディアボロスは覗き込んだ。
「あたしは……?」
ティシャが瞳を揺らしていた。
「あたしは、なんですか……?」
「ティシャは……姫という扱いだし、娘のようなものではないだろうか」
ディアボロスはそう答えはしたが、ティシャの扱いは少し困っている面もあった。アオカナやネルラは明らかに大人であり、ルシカは少女らしさもあるものの幼さはない。だが、小学生程度に見えるティシャはどう見ても子供であり、ディアボロスに染み付いた倫理観としては欲情するには抵抗がある。だが、年齢からいえばマリーとティシャに決定的な違いがあるとは言い難く、仮にティシャを「娘」だとすると、マリーも娘か、あるいはそこまででなくとも姪くらいの年齢ということになるのだ。そして、その感覚から言えばルシカも随分年下という感覚を持つことになる。ティシャに欲情するかどうかは置いておくとしても、ティシャを娘と位置づけることはやや難しい。
「ディアボロス様をお父さんだとは思ってないし、あたしはお父さんになってほしくて、ディアボロス様についてきたわけじゃないのよ……」
ティシャはそう言って縋ったが、ディアボロスとしては今ティシャにどういう態度を示すべきか判断しかね、結局頭を撫でるに留まった。それでも、ティシャはディアボロスの言葉を期待して待っていたし、ディアボロスの対応を、アオカナも、ルシカも、固唾をのんで見守っていた。
「ふふっ」
その気まずさを破ったのはネルラだった。ネルラがその状況を眺めながら楽しそうに笑ったのだ。
場にそぐわない反応に四人ともがネルラに注目した。
「閣下がこんなふうにモテモテなのは、私としては誇らしく、嬉しいものですね」
「ん……?」
ディアボロスはよくわからないといった様子でネルラを見た。ネルラは少し首をかしげたが、すぐに気づき、口を開いた。
「私が全てを捧げ、お使えする方ですから。そのような方に人望があり、好色ながら女からも愛されているということは、幸せなことでございますよ。もちろん、私も譲るつもりはありません」
ネルラはそう言うと妖艶に笑った。

この世界にきて以来の快適な寝床で女を着るようにして休んだことで、ディアボロスはいくらか心も癒えたような気がした。
「おはようございます」
支度を済ませたネルラが微笑んだ。アオカナとルシカも起きてはいたが、柔らかで肉感豊かな体をディアボロスに押し付けており、特にルシカは熱のこもった目を向けながら体を押し付けていた。
ディアボロスがその様子を眺めていると、アオカナがディアボロスの体に口づけたが、ネルラがそれを止めた。
「閣下、申し訳ありませんが、本日のお仕事が詰まっておりますので、情事はそのあとに」
アオカナはやや不満そうにディアボロスの体を降り、ルシカはそれでも諦めきれないというようにディアボロスを見つめていた。
「仕方ない。責務を果たそう」
ディアボロスはのそりと起き上がった。

ディアボロスに用意された服は、今まできていたものと比べていくらか豪奢で、格調高いものであった。その服装は、元の世界の歴史にあるような中世の服装ではなく、どちらかといえば司祭が着るような服に近かった。
「服もなんとかしたいものだな」
ディアボロスがぼやく。ディアボロスとしては服に頓着するほうではないと思うのだが、それにしても服装が野暮ったい。
そんなことを思いながら執務につくと、まず臣下の多くが揃っていることに驚いた。ネルラに何かと問うと、遂行中の任務がない者はディアボロスの命を待っているという。
「命令されなければ動かないのか!」
ディアボロスは思わず呆れて言葉にしたのだが、臣下たちは叱責されたと思い、ディアボロスが慌ててフォローすることとなった。
これはどういったことかとネルラに説明を求めたが、ネルラの口から聞いた執務の流れはディアボロスの想像と随分乖離したものであった。
曰く、ディアボロスの臣下というのはあくまで「ディアボロスの命令を遂行する駒」であるというのだ。もちろんある程度は階層化されており、騎士団長、兵隊長といった役職は存在するため、ひとりひとりに命令する必要はない。とはいえ、「ディアボロスが命令すべき対象と、その内容」があまりにも多い。つまりは、「大枠の決定」というものがないのだ。あくまで個別にディアボロスが命じなければならない。
そしてそもそも、ディアボロス自身がしなければならないことがあまりにも多いのだ。臣下への命令は「日々の」ものであり、内政に関わること、軍事に関わること、外交に関わること、そして司法に関わることも全てディアボロスの仕事だという。城内のことはネルラが請け負ったが、それでも本来であれば城内のことすらもディアボロスが指示せよというのだ。
「いくらなんでも組織として幼稚すぎるだろう」
ディアボロスがぼやく。近代国家であれば、そもそも絶対権力者がいるということはあまりないはずだが、仮に絶対権力者がいたとしても政というのは君主の名なしに動かないというようなものではないはずだ。単に命令系統があるというだけではなく、「上は細部までは関知しない」というのが普通の構造である。
人数が少ないということもあるにせよ、ディアボロスの感覚ではこれは政治というよりも、ベンチャー企業の運営のようであった。
と、考えるとふっと楽になった。
つまり、この領地というのはベンチャー企業であり、ワンマンなベンチャー社長が退任し、外部からコンサルタントが新しいトップとして入った、という状況に似ている。
そう考えればなにをすべきか、といえば、まず「改革」という言葉こそが浮かぶだろう。もちろん、現状うまくいっていてそんな必要はない、ということだって考えられるが、組織として数百人、全体では数千人という規模のトップとしてこれではまずいというのは明らかだった。
そして、この運営がこのような形式であるのは、特別な理由があってそうせざるをえないのではない。あくまで、この世界ではそれが普通だからそのようにしているだけだ。これこそ、外からの風によって改革すべき状況といえるのではないか。
「よしっ」
ディアボロスは勢いよく立ち上がった。既にアオカナとルシカは城内の「家事」の仕切りのために奔走していたし、ティシャは礼拝堂で勉強をしていたから、そこにいるのは重臣とネルラであり、ネルラはそうしたディアボロスの行動を微笑みながら見るばかりであった。
「今日から貴殿らの常識を、当たり前だと思っている全てを変えていく!不平不満は全て成し遂げてから口にせよ!」
重臣たちは慌てて敬礼した。

ディアボロスが最初に取り組んだのは活動の定型化、報告形式の確立、そして責任の明確化であった。
現状では、あくまでもディアボロスが個別に命令することになっている。だが、既に知識のある人間が揃っているわけで、ディアボロスはその者たちに進言させるのではなく、自身の裁量で良いと思うように指示できるようにするとした。それまで進言と伝達を担っていた重臣の仕事を、指揮と報告に変えたのだ。
報告はネルラが受け取り、ネルラがそれをまとめてディアボロスに報告する、という形式をまず固めた。活動の方針はディアボロスが命じ、その命令は報告に基づいておこなう、という方式だ。ディアボロスは、報告を怠ったり虚偽を報告すること、あるいは問題点を無視したり、目的の達成を目指さないことは処罰すると明言した。誰よりも早くネルラが理解したが、そのネルラでさえも何度も質問し、確認して理解したような状態であり、重臣たちはなかなか理解できず、訓練としてシミュレーションを繰り返すこととなった。
だが、ディアボロスにとっては、これは規模に沿った企業のような運営に変更したに過ぎなかった。地方政治として十分か、というと難しいところではあるが、人数を考えれば支障はなさそうであった。
ようやく理解が行き渡ったときにはもう昼をとうに過ぎており、さらにそこから「権限と責任」についての周知をディアボロス自らが行い、簡単なことと思えたこの運営方法の変更で一日が暮れていった。
「閣下、お疲れ様です」
ディアボロスが報告をまとめていると、明日以降の動き方について伝達して回っていたネルラが執務室に入ってきた。途中、家事に明け暮れていたアオカナとルシカに声をかけたようで、二人がそれに従っている。ティシャは既に学習を終えてディアボロスの近くに立っていた。
「やっと揃ったか」
ディアボロスはゴキゴキと首を鳴らして立ち上がる。アオカナが駆け寄り、ディアボロスが書いていたものを覗き込んだ。
「……これは、旦那様の国の言葉でごさいますか?」
質的に全く異なる文字の並びをみてアオカナが尋ねた。
「途中まではな。途中からは俺のいた世界の別の国の言葉だ」
ディエンタールとノイラルで文字自体はおおよそ共通で、ただ言葉自体は特に文法に違いがあるようだと感じている。それでも、まだ読めるようになるには至っていない。文字数が少なく、文字に対する読みの数が多い、というのが言語の特徴で、それに合わせて個々の文字の名前も長い。このことから少ない文字の並びのパターンで言葉を表現する、というのがなかなか覚えにくい。文字自体は直線的で単純な形をしている。だから識別は難しくなく、アルメニア文字のような識別困難性はないのだが、文字の並びから音を推測することが難しく、似たような文字並びの言葉が多いのが難しい。
一方、日本語を書いてみたところでこの世界の言葉がこうなっている理由を思い知った。ディアボロスに用意された紙は羊皮紙に似ているが、随分と厚みがあり、ペンは書くというより掘るに近い感覚である。結果、多くの線や曲線を持つ日本語を書くには全く適さず、単純な直線がなければ書きづらいのだ。諦めて途中から英語に切り替えたが、筆記具が文字に影響するというのは盲点だった。
「閣下のご差配、お見事でした。」
ネルラが称える。その言葉を奪いとるように、アオカナがディアボロスの手をとった。
「わたくしたちでは到底考えも及ばない方法で、新しい統治を知らしめたと伺っております。さすがは旦那様。わたくしはそのような旦那様にお仕えできて幸せでごさいます」
そのように言われるとディアボロスとしても面映いものだった。面白くなさそうに眺めているルシカのこともいささか気になったが、ディアボロスはとりあえず首を振ってその賛辞を否定した。
「元の世界の知識を持ち込んだだけだ。俺が何か偉大なことをしたわけでは――」
「いいえ」
ディアボロスの言葉を遮って、ネルラが口を開いた。
「そんなことはありません。私は閣下をこの国の兵器とするためにお呼びしたわけではありません。この世界にはない叡智、そして閣下が聡明な方であると思ったからこそ、閣下をなんとしてもこの国にと進言したのです」
相変わらず自信たっぷりにいいながらディアボロスに歩みよる。なんとも照れくさい、とは思うのだが、ディアボロスとしてはそれ以上に聞き捨てならない言葉が含まれていた。
「……まて、そもそも俺をこの国に呼んだのはネルラだったのか?」
言われてネルラはきょとんとした。ぱちくり、ぱちくり。目をしばたたかせて、問いかける。
「言っていませんでしたか? 私がノイラル公に進言申し上げ、それを受けてノイラル公よりいかなる条件を受諾してでも引き入れるように申し使って、ディエンタールへと向かったのですが」
「聞いていない。俺はネルラはノイラル公に命じられて身を捧げたものだと理解している」
その言葉をきいてネルラはさらに一歩、二歩と近づき、そのままディアボロスに抱きついた。
「そんなことはありません。第一、そのようなことで身も心も捧げるほど安い身ではないと思っています。私がディアボロス様を是非に、と思ったからこそ、私がディエンタールに伺ったのです」
それは想像だにしないことであった。ルシカが望んでディアボロスの寵愛を受けていることは、さすがにディアボロスとてこう何度もルシカに訴えかけられれば理解できるというものだが、状況的にはアオカナもティシャも、そうせざるを得なかったからディアボロスと共にいるようなものであるし、ネルラに至っては任務として、そして貢物としてディアボロスといるようなものである。それを考えれば女たちの意思などないも同然で、いっそ意思も人格も無視して蹂躙したほうが人思いなくらいであるとすら思っていた。
愛情や思慕を口にすることはいとも容易いことで、ディアボロスはそれを無邪気に信じる気にはなれなかった。だが、ネルラの言葉を信じるならば、少なくともネルラは自分の意思でディアボロスに抱かれ、傅くことを選んだことになる。もちろんそれは恋愛などというものではないが、ネルラの選んだ道だと言うのだ。
ならば、それならば。
ディアボロスの暴虐によって身を寄せることとなったルシカとアオカナ。生きる術を失ってやむなくディアボロスを頼ったティシャ。未だ見ぬディアボロスを信じてその身を賭したネルラ。彼女らの信に応える者になるべきではないか――
少なくとも、彼女らはディアボロスのことを信じているのだ。どう信じているのか、といえば難しいが、少なくともディアボロスがただ欲望のままに行き、気まぐれに陵辱し、八つ当たりで首を撥ねるような人部だと思っていれば誰もがもっと恐れるだろう。頼ることなどできないまま、ただ媚びるばかりになるはずだ。
だが、彼女らの言葉を、行動を、ただの媚と呼ぶことはディアボロスの心が許さなかった。
何を思っているのかは分からない。ディアボロスをどう捉えているのかはわからない。だが、「何を望んでいるのか」はいくらかわかりやすい。
ルシカは愛されたがっている。これが確固たるものであり、揺るぎない寵愛を欲している。愛に飢えた出自が、体ではなく心を求められることを望んでやまないのだろう。
アオカナは力と寄り添えることだ。自信に美貌と妖艶さなど、女として備わる強大な力を持ち、力ある者を跪かせてきたアオカナは相手の価値を値踏みする傾向がある。故により確固たる力を求めるのだが、ただ虚栄心に満ちていたり打算的であるわけではなく、一方でか弱いロマンチストだ。打算のためでなく尽くしたがりで、打算によってではなく寄りかかれる相手を欲し、時には甘やかされることすら望む。
ティシャは安寧だ。元が親がなく、貧しく不安定な暮らしをしていたティシャはその儚い居場所さえ奪われたとき、力あるディアボロスを頼った。そして今は、「ディアボロスの側」という場所に依存しているのだ。
ネルラは優秀さだ。自身がとても優秀なネルラは、ディアボロスに「優れた指導者」であることを望んでいる。同時に、ディアボロスが素晴らしい人物であることもまた望んでいる。それは、怠惰や欠落を嫌っているわけではない。ディアボロスが怠惰であれ、好色であれ、ネルラはむしろ甘やかすほどに支えてくれる。だが、不誠実であればどうだろうか。
そして――民は、ディアボロスが文明を、平和を、豊かさをもたらすものとして信じて疑わない。彼らにとってはディアボロスはいわば救世主なのだ。
「ネルラ」
ディアボロスはディアボロスを優しく抱擁するネルラの頭を、その大きな手で撫でた。
「いや……ルシカ。アオカナ。そしてティシャも」
ディアボロスは女たちを順に見ながら呼んだ。今の流れから呼ばれることを予期していなかったのだろう。三人は少し驚きつつ慌てて向き直った。
「俺はお前たちの全てを貰い受ける。その体も。その心も。あるいは未来のすべてもだ」
はっきりと、ディアボロスはこの場で宣言した。
「俺は、お前たちを幸せにしたい」

領主は忙しい。その点は否定する余地がなかった。権力が領主に集中し、システム化されていない政治は効率が悪く、ひたすら領主の手腕を必要とした。硬直した日本流の元凶であるという言い方もできるが、統治システムという点では日本のほうが中世において優れていたように思われた。
「日本……?」
こうして考え事をしていると、ディアボロスは少しずつ前世の知識が輪郭を持つのを感じていた。ここに来たばかりの頃はありとあらゆる名前がぼんやりとしたものであったが、今はこうして少しずつその記憶や知識が具体的なものになってきている。
ディアボロスはまず簡単な法律を制定し、一律に適用するものとした。基本的には前領主から続く伝統を踏襲したが、今の文化、文明においても状況によらず明らかに罰せられるべきことを加え、統治者に対する無礼な行為などを咎めることをやめた。
そして法を執行する者はその理解が進んでいる者を任命した。法の執行は絶大な力であり、故にその力は抑制的にした。立場を弱くするだけでなく、その力を濫用する者には特別に思い処罰をするものとした。
そして次に医療と教育をシステム化した。医療は要と判断される場合は全て公的に負担するものとし、民の負担をなくした。また、幼少の者は日々短い時間ではあるものの、教育を受けねばならないと定めた。身分の高い者に特別に用意されたものを開放した。
そして、衛生の水準の向上のため考えられる策を次々ととった。水路の確保など、力のいる部分はディアボロスが自ら働いた。
ネルラを含めた重臣たちは次々と禁忌を犯し、あるいは想像だにしないことを指示するディアボロスに驚いてばかりであったが、すぐに慣れてディアボロスの命令には良い笑顔が返ってくるようになった。
この領にきてから誰もがディアボロスに好意的だったが、こうしていることで民からも、女たちからも信頼も好感も得られていることが実感され、ディアボロスは日々上機嫌であった。
それでもディアボロスは数日に一度は礼拝堂に足を運んだ。この世界の神には疎いが、そこでディアボロスはマリーのために祈りを捧げ、胸の内でマリーに語りかけることを欠かさなかった。

ディアボロスが初めて外交することとなったのは、ここにきて二週間を過ぎてからのことであった。急に訪ねてきたのは穏やかそうに見えて知識な空気を纏わせた初老の紳士である。それが何者であるかということは、先程騎士から聞いていた。グラルス・フォランタ・ノイラル公爵。前領主であった。
「この短期間で随分と変わったものですな」
字面だけみれば不満の表明にも聞こえるが、フォランタ公は実に楽しげであった。
「俺か治める以上、民に、それ以上に女たちに幸せになってほしい。考えているのはそれだけだ」
ディアボロスがそう答えるとフォランタ公はまた楽しげに笑った。同席しているのはネルラと、フォランタ公の妻である。聞けばフォランタ公は子宝に恵まれなかったのだという。
「ネルラ君は昔から飄々としてあまり夢中になる姿を見せない子だったが、君のことを話すときは途中でカップを倒したのにそれに気づかないほどでね。あんな熱弁を振るう姿に、まるで孫が成長したようで喜ばしいものでしたよ」
ネルラは少し赤くなって照れ隠しのようにむくれた。年の差を考えると孫というにはいささか大きいような気もするが、ネルラがノイラル公に仕えたことから知っているのだろう。
「あれほど熱弁を振るうのだから任せることに迷いはなかった。それでも、こうして君が治める姿を見ることができて安心しました。民の笑顔が全てを物語っていました」
実際、善良な民に恵まれたこともあり、実に理想的な統治が実現しており、ディアボロスの手腕は誰しも讃え、もはや信奉しているといっていいほどであった。それがディアボロスの能力や人格を逸脱するほど過剰な評価であることはもちろんディアボロス自身もまた認識しているのだが、結果だけみればそれに値するほどうまくいっているのだった。
「ところでディアボロス殿、そろそろ当地の名を決めなければ皆が困ってしまうのではないかな?」
「困る?なぜだ?」
ディアボロスが聞き返すと夫妻は怪訝そうな顔をした。ネルラも同じようなものだが、慣れたネルラはすぐ気づいたようだった。
「閣下、私達の名前は自分が属しているもので決まるのです」
「ん……どういうことだ?」
「私の場合、ネルラ・ティアス・ノイラルになります。ネルラは私の名前。ティアスは私の家の名前。そしてノイラルは私の国の名前です」
「ふむ……」
「仮にこの領地の名前をフォランタだとすると、私は今フォランタに仕えていることになりますから、ネルラ・ティアス・フォランタ・ノイラルになります」
「うむ……?」
「つまり、この領地に属している者は全てこの領地の名前を名乗らなければならないのですが、この領地に今名前がないので、皆名乗ることができないのです。所属しているものを飛ばしてしまうのは不敬となり、処罰の対象にもなります」
「そういう仕組みなのか……それはこの国だけの話か?」
「いえ。少なくとも周辺諸国においても名前はそのようになっています」
ディアボロスが後に聞いたところでは、ここに来る以前のフルネームは、ルシカがルシカ・アニュム・エルアテリス・ディエトリア・ディエンタール、アオカナがアオカナ・ラシュヒシエ・エルアテリス・ディエトリア・ディエンタール、ティシャはティシャ・アニュム・ロシエ・ディエトリア・ディエンタールであるという。家名が「アニュム」であるのは、ディエンタールにおいて出自である家が不明であることを意味し、ルシカとアオカナは娼館であるエルアテリスの名を、ティシャは庇護を受けていた家の名前であるロシエを冠し、王都ディエトリアに続き国名であるディエンタールと続く。必然的に、身分が低かったり、複雑な身分であると名前は長くなり、短い名前を関することは余人の干渉を受けないほどに身分が高いことを示すため誉であるという。
「ディアボロス様は一応、形式に則ればディアボロス・アネ・ノイラルということになりますが、ディアボロス様がこの世界の人でないことを考えればそのように名を呼ぶことは不敬になる、と私を含め皆考えております。ただ、それだと私を含めディアボロス様の家に属すべき者が名乗るべき名前がなく、そしてこの領地の名前が抜けてしまいます」
「それは……全く想像だにしない問題だな」
確かに、名前の通用という点ではある程度国を越えて地域に通じるものがあり、そのルールを破る、というのは様々なところで支障が出る可能性が高い。商人以外の民が領外へ出ることはあまりないようだが、とはいえ名乗るに困ってしまうような状況では民が困るだろう。
「しかし、その意味ではディアボロスという名にも一考の余地がありそうだが」
「閣下のお名前になにか?」
「いや……ディアボロスという名は、俺のいた世界で悪魔を意味する」
その言葉に場が少し緊張した。ネルラは表情に出さないようにしていたが、それでも緊張は伝わってきた。
「本当のお名前は別に?」
「あるだろうが、覚えてはいない」
実際、ディアボロスは自分に関すること、そして自分の身の回りに関することはほとんどといっていいほど思い出せなかった。思い出せているのは知識に関してだけで、自分がどんな身分で、どんな暮らしをしていたかということは、まるで思い出せないのだ。
「ご自身がお嫌でなければ、無理に変えることもないのではありませんかな」
ネルラの困惑を見てフォランタ公が口を挟んだ。
「この世界でディアボロスという言葉が悪魔を意味するわけではありません。その響きは私達にはないものであり、別の世界から来たディアボロス殿にふさわしい響きを感じます。」
「…………考えよう」
ディアボロスは静かにそう答えた。

フォランタ公はネルラや領民の評に違わない、穏やかで知的で、民思いな人物であった。ディアボロスはこの地のこと、民のことなどをフォランタ公と大いに語り合い、時が経つのを忘れるほどであった。
フォランタ公は帰り際、こう言い残した。
「本領でノイラル公が待っています。ディアボロス殿に侯爵位が与えられることとなっています。ぜひ、お越しください」

2019-12-21

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