ディアボロスの朝は相変わらず涼やかなマリーの声とお茶で始まった。アオカナとルシカはまだ眠っているのか、部屋の様子はわからない。
「起こして参りますね」
マリーがそう言って部屋を出ていく。そろそろこの狭い宿もなんとかしたいところだと考える。窮屈である上に、あのふたりといられないことがディアボロスにはとても不満だった。
ディアボロスは、こうした問題を解消するならばノイラルのほうが早いだろう、と考えていた。理由はやはりフットワークの軽さだ。あれほど速やかに行動を起こしたことを考えると、ノイラルにはだいぶ利がある。
気になるのはルシカの見解だ。この国にあるものがこの国でなければならないものではない、というのもそうだが、なんとなくこの国に不穏なものがあるように感じられた。初代国王が覇王であった、ということ自体はそれほど驚くべきことではないが、ディアボロスが破壊した塔は初代国王がこもっていたものである、ということはマリーから聞き及んでいる。なんのためにあの塔があり、あの塔で一体何をしていたのか。単身で攻城戦に勝利し、国を治めるほどの力とは一体なんなのか。そして、この国は一体何を隠しているのか。
少なくとも、塔において行われた時点で、ディアボロスの召喚そのものがその一端であることは間違いなかった。そして、それがディエンタール王国の切り札であることも含めて、この世界における外法のひとつであるということは明らかなのだ。もしそれが公知のものであれば切り札足りえないのだから。
(だが、現国王はそれを使いこなしていない)
話の限りでは、初代国王は自らがそれらの力、あるいは外法を駆使した可能性が高い。塔にこもっていたのが自身であることを考えても、初代国王自身が知悉していたのだろう。だが、国王は何ができるのか、あるいは何が起こるのかということをいまひとつ把握していないようである。あの国王はどちらかといえばお人好しであり、平時の良君といった印象である。街で見た限りでも、国王の評判は良い。ということは逆に言えば、何かを隠しているとしたら、この国であり、国王ではない。国王もまた、この国から真実を隠されている可能性が高いのだ。
(黒幕は誰だ?それとも、もはや誰にもわからないのか?)
初代国王だけが知っていた、という可能性も考えられた。むしろそちらのほうが本筋であるように思えたくらいだ。
(その場合、俺にとってそのことは埒外で良いのか…)
国王がこの国の秘密をディアボロスに隠し、それが脅威になるとすれば、看過できようはずもなく、敵とみなすという考え方はすぐに成り立った。では、現国王は何も知らず、この国の成り立ちには重大な秘密があるとしたらどうか。誰かがディアボロスに悪意を向けているわけではない。だが、重大な何かに加担する可能性があり、また一方で強大な何かに巻き込まれる可能性もある。
(少なくとも、アオカナやルシカを失うのは惜しい…)
マリーは自分のものではないが、アオカナやルシカのような魅力的な人物がそうそういるとは思えず、なにかに巻き込まれることで彼女たちを失うことは避けたい、とディアボロスは思った。
どうやらこの国のことを調べる必要がありそうだ、と思うのだが、その手段は難しいところであった。
朝食を終えて、一行は広場にきていた。理由は、四人で話すには宿が狭すぎるためだ。できることなら大きな公園のようなものがあれば良いのにと思ったりもするが、そのようなものはなかった。歴史的に、もっと後の時代にならなければ登場しない概念なのかもしれない。
「リクリエが、それほど広くはないものの屋敷をひとつ買い取ったので目処は立っているということを言っていましたよ」
体の大きなディアボロスのために、マリーは少し前を歩き、足元を注意し、人だかりなどには注意を促していく。もうすっかり慣れたもので、自然な振る舞いであった。
「マリー様はまるで奥様のようでございますね。わたくしの出番がなくなってしまいそうです」
アオカナが不満げに言った。だが、そんなアオカナも既にディアボロスには見えづらい小さな子どもが寄ってきたときなどに注意を促しており、ふたりの気遣いは似たようなものであった。
「しかしくどいようだが、ゆっくり話もできないというのは困りものだ。宿は狭いし路も狭いし、広場も狭い。息が詰まるようだ」
「ディアボロス様の国ではどの方もディアボロス様のように大きい方ばかりなのでしょうか」
ディアボロスのぼやきを聞いてルシカが問いかける。
「いや、そんなことはないはずだ。俺は別に体躯の大きいほうではなかったはずだし、このように狭くはなかった」
その答えをきいてアオカナが首を傾げた。
「それでしたらむしろ、巨人の国という印象が致しますが…」
「ふむ…?」
「旦那様だけが大きいのでしたら、周りは小さく見え、小さな国のように映るのございましょうが、誰もが大きければ家も調度品もまた大きいはず。ディアボロス様が特別大きく感じられなくとも不思議はございません」
「なるほど…あ、いや、」
ディアボロスは納得しかかったが、かぶりを振った。
「確かに、この世界と元の世界で同じものがなければ大きさは比べられない。りんごは、元の世界にもあったが、それが同じものだとは限らない。だから、俺が大きいのではなく、この世界の人々が小さいのかもしれない。それは確かだが、そもそも俺の体は元の世界と同じものではない。だから、俺自身が元の世界の大きさと比べる指標にならないのだ」
そもそもこの世界にはメートル原器がないし、キログラム原器もまたない。大きさ、重さに関して両方わからないのでは、比較可能な形で測る方法がない。もしかしたらあるのかもしれないが、少なくともディアボロスの知識の中にはなかった。
「距離や重さが相対値だということは、いままで考えたことがなかったな…」
同じだと思えるものはある。水だ。だが、この世界の水と元の世界の水が同一のものだと保証する方法がない。まして、光を計測する機器などあるはずもない。さらにいえば、魔術が存在するこの世界で物理法則が同一であることを保証することもできない。この世界の大きさと重さは、元の世界の大きさと重さと比較できないのだ。
「うぉぉぉ、俺は理系じゃないんだ!」
頭がこんがらがってディアボロスが吠えた。大地が揺れ、人々がディアボロスに注目した。
「ディアボロス様、リケイとはなんですか?」
一番慣れているマリーが最も早く立ち直り、ディアボロスに訊ねた。
「あぁ、すまない。おもしろい話ではない」
「わたくしはお聞きしたく存じます。旦那様のお話は知見に富み、どのようなお話も楽しいものでございますから」
ディアボロスはどう言ったものかと思案に暮れたが、やがて口を開いた。
「俺がもといた世界では、人の知がどの方向に向いているかを隔てて文系と理系と呼んでいた。文系は歴史や統治、あるいは物語を学び、理系は科学や技術、そして世界の真理を解き明かすことを学んだ」
「文系のほうが地位が高い、ということでしょうか。ディアボロス様は元の世界で高貴な方でございましたか」
「いや、そんなことはない。単なる分野の違い過ぎない。まぁ、理系が勤勉で文系は放蕩であるという風潮もあって、いささか文系が蔑まれる向きはあったが」
「なぜそうのようなことになるのでございましょう。そのように学の高い方が蔑まれるなどと」
「俺が元いた世界では、学びは義務だった。労働は子供にはさせない。理系は女が少なく、理系の男はあまり人気がなかった。というよりも、理系は勤勉でなければ勤まらず、あまり色ごとにかまける暇がないのかもしれない。文系が勤勉でないわけではないが、色ごとを好むならば文系という選び方をされもするというだけのことだ」
三人とも難しい顔をして考え込んでしまった。やはり文化的価値観の違いを説明によって納得させるというのは極めて難しいことであると感じる。
「しかし、ディアボロス様のお話では夢のような世界に思えます」
「なぜだ?」
「労働せずとも学びを得られ、その学びを経た者ですら好色であると蔑まれるなど、貴族のような暮らしではありませんか。それが当たり前であるなどと、さぞ豊かで平和な世界なのだろうと思ったのです」
ディアボロスは苦い顔で黙り込んだ。
「貴様らには正直に話そう。俺は、元の世界のことをあまくよく覚えていない。ぼんやりと、なんとなく覚えているだけなのだ」
「それは…」
「だが、その記憶の中でも、そう単純なことではなかったということは覚えている。世界には色々な苦しみに溢れていた。俺がいた国は豊かな国だったが、それでも人々の顔はこの国のほうが明るい」
「どうしてでございましょう…そのような、豊かな国ですのに…まさか圧政に」
「政治体系がまるで違うからな。悪政ではあっても圧政ではない。それを説明するのはあまりに難しい。しかしな、それでも暮らしやすいのは元の世界だ。俺が今不便を感じているのをひっくり返せば、貴様らを俺の世界に連れていくことができれば、さぞ幸せに感じるだろうとも思う」
ディアボロスの言葉を聞いて、マリーは何度も言葉を発しかけて逡巡した。
「構わない。言え」
「…はい。ディアボロス様は、その… 元の世界にお戻りになりたいと、お考えですか」
ディアボロスは深いため息をついてから、答えた。
「そのつもりはない。王にそれを求めるつもりもない」
「…なぜですか?」
「…俺は元の世界のことを覚えていないんだ。覚えていない場所に帰りたいと思うことは難しい」
その言葉に、ルシカが寂しげな顔をした。
ルシカはディアボロスの視線に気づき、俯いてしまった。きまずい沈黙の後、ディアボロスが何か話そうかとしたところで、ルシカは口を開いた。
「帰る場所が、帰りたいと思える場所がないことは、とても悲しいことです」
マリーははっとしたようにルシカを見たが、アオカナは悲しげに微笑んだままだった。
ルシカは言葉を続けようとはしなかった。ディアボロスとしても察するところは合ったものの、あえて
「俺は貴様らのことを聞きたい。知りたいのだ。辛いことかもしれないが、話してくれないか」
と言った。この言葉には各々驚きを表したが、最も早く受け入れたのはルシカだった。
「私は、物心つくかつかないかの頃には奴隷として売られ、そのときの主人が捕まり、行き場のなくなった私はあの娼館に拾われることとなりました」
「主人は私を性奴隷として購入したのでしたし、思いつく限りの…いえ、私には到底思い至らないような様々な陵辱を受け、恥辱を受けました。それでもお前はつまらないと、拳を振るわれることも少なくありませんでした」
「奴隷としての日々は、一刻も早くここから逃げだしたいと、そう思っておりました。しかし、いざ解放されてみれば、私はなにも持っていません。知識も、お金も、物も、なにもなく、ただ淫らに振る舞うことだけが、私のすべてだったのです」
「ですから、私はこの街に放り出され、したことは当然、体を売ることでした。物乞いの一方で、施しの多い物乞いに体をうって分けてもらう、そんな暮らしをしておりました」
「しかしそれでは生きていけず、街の人に、あるいは貴族の方に体を売るようになりました。そして、私の主人を捕らえた衛兵と同じ方につかまり、娼館に引き取られました」
「娼館についてからは、マリシアというお姉さまが私の身の上を哀れんでくださり、様々なことを教えてくださいました。」
「それこそ、街とはなにか、お金とはなにか、食料はどうやって手に入れるかといったことから、国のこと、戦争のこと、殿方の喜ばせ方も」
「お姉さまは去年、病でなくなりました」
「私は、お姉さまのおかげで、ディアボロス様に目にかけていただけたわけです。お姉さまは、私の恩人です。もちろん、ディアボロス様も」
「あ…帰る場所のお話でしたね。奴隷として暮らしていた家は出ていきたい場所でしたし、娼館でも、私はあまり人気がなく、実のところ厄介がられていたのだと思います。ですから、激しい、はっきり言えば乱暴なことをしたがる方につけられることが多かったのです」
「娼館でも、必要とされているとは思えませんでした。お姉さまも、自分ひとりで生きていきなさいといつも口にしていました。ですから、娼館が私の帰る場所なのだと思うことはできなかったのです」
「…ですから…私はずっとディアボロス様のもとにおります。いさせてください。お願いします。なんでも、しますから。私には他にいくところなど、ないのです…」
ルシカの話を誰もが黙って聞いていた。話し終えるとディアボロスは浅く、長く息を吐き、マリーのほうを向いた。
「奴隷はこの国では売り買いも禁止されていますが、これは一律ということではありません。孤児など行き場のない者を労働者として身請けることは許されており、これが事実上の奴隷となっています。
しかし、その場合でも売り買いは禁止されています。しかし、この国の外で売り買いした奴隷を所有することは特に禁じられていません。
ただ、あくまで労働力として、です。労働力以外として奴隷を持つことは禁じられており、その虐待は罪になります。性奴隷、というのはあまり耳にしません。市井の者の間でも性奴隷などという扱いをするのは畜生と交わるようなものだと忌み嫌われ、蔑まれますから、実際にそのようなことをしようという者がほとんどおりませんから」
ディアボロスの意を介した見事な解説であった。だが、ディアボロスとしてはまだ不十分だった。
「それもだが、もうひとつ聞きたいことがある。いや、ふたつか」
「ふたつ?なんでしょうか」
「まず、この国にはそんなにはっきりとした法律があるのか?」
「え?
はい。現陛下が戴冠されて間もなく、民も諸侯も例外なく法に従わねばならぬと仰せになりまして、事細かな法律を作られました」
「そしてもうひとつ。衛兵が法を犯したものを捕えるのか?」
「はい。あ、いえ、直接という意味では自警団の者が捕えることが多いのですが、自警団には断罪の権利を与えられておらず、それ以前に牢に入れることができるのは衛兵と近衛兵、そして騎士だけですので」
ディアボロスは思案した。自分の話がそのような形で捉えられたルシカも困惑したが、マリーはそれ以上に困惑していた。
「あの、ディアボロス様…?」
「ん?ああ… 俺の世界ではそうした法や、取り締まる組織ができたのはもっと文化が発展した未来の話だった。どうも国王は内政にはなかなか先見の明があるようだ」
ただし、軍略や外交に関してはそうではない。その言葉は飲み込んだ。
「ルシカ、俺は貴様を手放すつもりはない。しっかり尽くせ」
「…はい!」
ルシカはディアボロスの体にしなだれかかることで応えた。
「さて…折角だ、二人のことも聞きたい。アオカナ、良いか?」
「旦那様がお望みでしたら、なんなりと…」
「わたくしはルシカとは少々事情が異なるのでございます。わたくしは元はこの国の者ではなく…帝国の貴族の娘でございました」
「わたくしが十三になろうというとき、家に騎士が踏み入りました。わたくしの両親が、ディエンタール王国の間者である、との疑いを受けたというのです。わたくしはそのとき、友人の家におり、その家に従者が飛んでまいりました」
「そして、言われるがまま、わたくしはこの国への逃げ込みました。両親が間者である、という疑いが嘘か真か、わたくしは存じ上げませんが、この国に逃げるよう、強く言われたということは恐らくはそうであったのだろうと、わたくしはそう理解しているのでございます」
「従者はこの国に至る前に、囮となりました。そうして犠牲を払いこの国に来たものの、頼るようにと言われた者は、この国で見つけることができませんでした。そのような者はいない、というのございます」
「そしてこの国にきて数日、着飾った格好で薄汚れたわたくしが目を引いたのか、暴漢に襲われそうになりました。そして逃げ込んだのが、あの娼館なのでございます」
「客をとるならばここにいて良いと言われ、どのみちわたくしに残された道はそれしかないと、娼婦となることを選びました」
「わたくしには淫乱の才があったのでございましょうか。お客様にうまく喜んでいただくことができ、わたくしは人気を得ることができました。そして、目に見えて扱いはよくなったのでございます。わたくしを買うことができるのは、金払いがよく、信用できる方に限られました」
「ルシカとは違い…わたくしは、あの娼館こそが居場所であり、娼婦は天職だ、そのようにすら思ったこともございます。今も、その思いはあるのでございますが、もうひとつ、客をとらずに眠る夜には、色々な国を見て、様々なことを知りたい、そんな気持ちが湧いてくるのでございます」
「旦那様に身請けしていただくまでは、あの娼館の外の世界にふれることなど、あるとは夢にしか思わなかったのでございます」
「これからの人生、わたくしは旦那様にすべて捧げて生きてまいります。ルシカだけでなく、どうぞわたくしも可愛がってくださいませ」
ディアボロスが元娼婦のふたりに熱い視線を向けられながら話をしていると、馬の足音が聞こえてきた。見れば、見覚えのある騎士姿がこちらに向かって馬を走らせている。
「ここにおられましたか」
リクリエは馬から降りてディアボロスに向き合った。相変わらずにこやかで、真意の読めない爽やかさであった。
「陛下よりお答えがありましたので、お伝えに参りました」
マリー、アオカナ、そしてルシカが下がり、居住まいを正した。ディアボロスも正対し、表情を引き締める。
「まず、ディアボロス様ご要望の女につきまして、マリーを譲る、とのことであります」
「んなっ!」
ディアボロスが口を開く前に今まで聞いたことのないような声がマリーから上がった。
「こちらは陛下の強い推薦となり、またセルトハイン卿も意見を同じくしております。マリーに抗議する余地はありません」
リクリエがはっきり言うと、マリーはがっくりと膝をつき、ルシカが慌てて支えた。
「次に昨日お伝えいただきました追加の条件につきまして、受け入れるとの回答をいただきました。ついては明後日、具体的な方法について意見を交わすべくディアボロス様にもご登城いただきたいとのことであります」
「…わかった。明後日、出向こう」
ショックから立ち直れないマリーはアオカナにも支えられ、生気を失った表情をしている。
「しかし、なぜマリーを?本人がこれだし、国王にとっても重要な人物だろう?」
ディアボロスが問うと、リクリエは苦笑して返した。
「昨日、報告に戻るとちょうどセルトハイン卿もおられまして、我々の報告を聞いたお二人が『それはマリーのことではないか』と仰るので」
「…ふむ…ふむ…?確かに…」
侍女たちが話していたディアボロスの好み、そしてディアボロスが昨日選定に使用した条件は、まさに「マリーと同等の」という条件であった。
「それでは、確かにお伝えしました。あぁ、居館につきましても、近いうちによいご報告ができるかと思います。それでは」
そう告げるとリクリエは颯爽と馬にまたがり、もと来た道を去っていった。
「マリーはそんなに俺が嫌か」
アオカナに支えられたまま青白い顔をしているマリーを見て、ディアボロスは言った。
「い、いえ…」
マリーはすっかり混乱しているようで、いつもの姿からは考えられないような取り乱しようだった。
「わたしは体が小さいですから、ディアボロス様のおもちゃにされてしまうと、きっと壊れてしまうだろうと…」
「……ルシカと大して変わらん気がするが…? というよりも、ルシカのほうが小柄だろう」
言われてマリーはルシカと自分を見て見比べる。そして絶望的な表情を浮かべた。
「…そんなに嫌か」
今度は少々苛立ちを見せると、マリーは慌てて手をふって否定を示した。
「いえ!ディアボロス様のことが嫌いとか、嫌とか、そういうことでは決して…」
「そうとしか見えん」
「そうではありません!ただ…ディアボロス様が、ただ恐ろしいだけの方でないと知っていても、どうしても恐ろしく思えてしまうのです」
マリーはディアボロスの戦闘を近くで感じている。無理もないのかもしれない、そう思いはしたが、ディアボロスはそれを表に出すことはなかった。
「マリーはもう俺のものなのだ。従え」
「…………はい」
ぐっと噛み殺したような声で、マリーは応えた。
宿に帰る頃にはマリーも覚悟が決まったのか、自ら服を脱ぎ、ディアボロスに体を委ねた。経験のなかったマリーは、何度も絶叫しながらもディアボロスを受け入れるため耐えた。
終わった後にはしばらくは複雑そうな顔をしていたが、しばらくすればまたいつもの冷静な姿に戻っていた。
「マリーの話も聞きたいな」
「え?」
「リクリエが来てマリーの話は聞けなかった。聞かせてくれないか」
「わたしのお話ですか…おふたりのように、取り立ててお話することもないのですが…」
マリーは肌を晒したまま、ディアボロスの隣に座った。ディアボロスの隣に座る、ということ自体が今まであまりなかったので、あるいはそれがマリーの意思表示なのかもしれなかった。
「もう既にご存知かと思いますが、わたしはセルトハインの家の長女として生まれました。長く子宝に恵まれなかったそうで、お父様、お母様にも、お祖父様にも、とてもかわいがっていただきました」
「わたしが小さい頃はまだ先王がご健在でして、お祖父様と陛下の仲がよろしかったこともあり、陛下にもかわいがっていただきました」
「わたしが九つのとき、現第一王女がお生まれになりました。そして十一のとき、お祖父様が、わたしに、殿下の身の回りを任せたいという話があるということを告げられました」
「お城での暮らし、というのは憧れるところもありましたけど、お祖父様はわたしに、よく考えるようにおっしゃいました。これは遊びではない、というのです。今のままこの館に留まれば、領主の一族として、領内の統治に携わることとなります。しかし、城にいけば、わたしは国のための存在。もしものときには、わたしを差し出すこともあるだろうと」
「お父様とお母様は反対しました。お祖父様が陛下と仲が良いとはいえ、そのようなことをする必要はないと仰るのです。お祖父様は、わたしはこの館にとどまるような器ではないとおっしゃいました」
「結局、わたしはお城に参りました。それより五年と少々、わたしは両殿下のお世話係として、お城にお仕えしておりました」
「陛下より直接に、ディアボロス様に尽くすよう命じられた際には、いよいよそのときが来たのだと思いました。あとは、ご存知の通りです」
「来歴としてはわかったが、確かにそれはあまり面白くない話だ。なにより、だいたいのところ知っている」
「…はい。申し訳ございません」
「そうではない。俺はマリーのことが聞きたい。好きなことはなんだ?子供の頃好きだったことは。城での楽しみは」
「…え?」
マリーは目をぱちくりぱちくりさせ、ディアボロスを見つめた。
「どうした?」
「いえ、あの…それ、本気だったのですね」
「ん…?」
意味がわからない、というようにディアボロスはマリーを見つめ返した。
「なぜだ?俺が冗談で言っていると思ったのか?」
「冗談というか…わたしを甚振る前に気遣ってくださっているのかと」
「なぜ貴様はそうも俺にひどい目に遭わされるように言うのか…そんなつもりはない。俺はマリーをそれなりに好いているのだ。リクリエも、マリーが俺の好みの女だと言っていただろう」
「…………それ、本気で仰っているのですか?」
「…俺が冗談を言うように見えるか?」
その夜、遅くまでふたりは寄り添いながら言葉を交わした。
マリーは好奇心旺盛で、女ながらに様々な国を渡り歩き冒険することを夢見て日々妄想に暮れたこと、勇敢で美麗な冒険者が城から連れ去ってくれる夢を見ていたこと、城の魔術師たちの好奇心ではしゃぐ姿を眺めるのが好きだったこと…様々なことを語った。
その話を聞きながらうなずくディアボロスの表情は、どこか優しげであった。
マリーと初めての夜を迎えた翌朝は、爽やかな目覚めとはほど遠かった。マリーがいつものようにお茶を用意していると、激しくドアを叩く音が響いたのだ。
「ディアボロス様!」
リクリエは今までみたこともない、憔悴した表情であった。そしていつもと違い、その装いは重装である。
「どうした」
「隣国、ウィスガフが侵攻してきます。ディアボロス様、どうぞご助力を…!」
すぐに冷静さを取り戻したかに見えたリクリエだが、その言葉には焦りが滲んでいた。
「そんな…どうして…」
マリーもショックを受けているようだったが、ディアボロスは事態を把握していなかった。
「マリー、簡潔に説明しろ」
「……ウィスガフとは、同盟関係にあります。ウィスガフ家には、陛下のお姉さまが嫁いでいるのです…」
マリーの言葉を聞いて驚愕の意味を理解する。戦闘の状況よりも、その事実に驚いているようだ。
「なるほど…裏切りか。戦況は」
「接敵まではまだしばらく時間がありますが、戦力差はかなり大きく、このままでは…」
ディアボロスの問いにリクリエが顔をしかめる。その様子から相当に厳しい状況が窺えた。あるいは、先のディアボロスとの戦闘で戦力と言えるようなものは残っていないのかもしれぬと考えた。
「わかった。出よう」
「…!ありがとうございます!」
リクリエは膝をついて礼を示した。ディアボロスは軽く手をふると、マリーに向き直った。
「マリー」
「はい」
「アオカナとルシカを頼む」
「承知いたしました」
マリーが深く頭を下げる。
「…どうか、ご武運を…」
「……俺のことを案じる必要など、ない」
そう応えると、マリーに背を向け、扉へと歩を進めた。
「…いくぞリクリエ。この俺に歯向かうことが何を意味するのか、裏切り者に存分に刻み込んでくれる」
「はっ!」
リクリエがそれに従う。マリーの目にその姿は、いままで側にいた尊大だが優しげな巨人ではなく、得体の知れぬ空恐ろしい悪魔のように見えた。
戦場に到着すると、ディアボロスが想像したよりはずっとしっかりした兵列が出迎えた。だが、思えばディアボロスはこのような軍勢を見たことなどなく、数えれば千もいるのかは怪しいようだ。さすがに城の守護を担う騎士であるリクリエが前線に残るということはなかったが、部隊指揮に騎士の姿がちらほらあり、兵力としては相当厳しいようであった。
「状況は」
ディアボロスは総指揮を取る騎士に尋ねた。ディアボロスの作戦行動はディアボロス自身によって決めるということで、この騎士と作戦を練ることとなっていた。
「敵はまっすぐ街道をこちらへ向かっているようです。数は二千以上と」
「こちらは?」
「七百を割っております」
思ったよりも厳しい。だが、ディアボロスが敵部隊と接触すれば簡単に覆る数であった。
「では俺が先行して敵を叩く。貴様らはここに留まり、逃れた敵を迎え撃て」
「えっ!しかし…それでは…」
「正面の敵が陽動である可能性を考えろ。守りが手薄な今、進軍して挟撃されたり、俺達をおびき出して攻城を狙われたらどうする」
「な、なるほど…ならばいくらか兵を同行させましょう」
「不要だ。俺の近くに味方がいれば邪魔になる。近づく者はすべて消す。それだけだ」
およそ作戦と呼べるようなものではなかったが、実際にディアボロスの圧倒的な力を前にそれ以上意味のある作戦らしきものはありようがなかった。部隊に兵たちに困惑と沈黙が広がる。
「行くぞ。思い知らせてくれる」
城ではさながら重戦車が踏み潰すかのような戦いを見せたディアボロスだが、その動きは素早かった。人には到底捉えられないような速度で大地を蹴り、駆ける。轟音を響かせながら土埃を上げる姿とその気迫は、まるで特急装甲列車であった。
敵の姿を捕える。ディアボロスは足を緩めることなく、そのまま敵陣へと突撃した。
「ウォォォォォォォォォォォ!」
咆哮とともに敵をなぎ倒す。敵にぶつかれば腕を振り、蹴り上げ、掴んだものを叩きつけた。敵は弾き飛ばされ、弾け飛び、あるいは千切れ飛び、たちまち大地は血の海となった。
「さぁぁぁぁ来い!俺に歯向かったこと、後悔させてやろう!」
掴んだ残骸を大地に叩きつけて吠える。だが、敵に動揺こそ見えたものの、襲撃を予想していたと見えてすばやく後退し、大きく包囲するように展開した陣形へと立て直した。
「フンォッ!」
だが、ディアボロスが大地を叩くと、その衝撃で体が浮き、その体勢が乱れる。隙ありと、ディアボロスは再び加速し、正面の敵をぶち破った。
あとは簡単な話であった。踏み込みながら右、左、右、左と拳を振るうだけで、水風船を叩き割るがごとく敵は砕け散り、あたりに血が舞う。ウロボロスがその尾を飲み込むが如く、包囲は端からディアボロスの暴力の餌食となっていった。しかし――
「っ!ぐぉっ…」
ディアボロスが踏み込んだ瞬間、閃光、そして遅れて爆音とともに敵兵が吹き飛ばされた。ディアボロスは吹き飛ばされはしなかったものの、体に衝撃が走った。
自らの体を確認しようとすると、大地の淡い光が目に入った。
(これが…魔術か!)
爆発。ディアボロスにはどれほどの規模なのか確認はできなかったが、爆薬で吹き飛ばすほどの威力の爆発であった。再び敵に襲いかかろうとしたとき、ディアボロスの体に二度、三度と衝撃が走った。
「ぐぉぉ!」
痛い。それは叩きつけるような、焼き付くような、確かな痛みであった。だが、それだけだ。ただ、痛みが走るだけであった。
「くっ…ん?」
背中にかすかな感触を感じる。振り返ると、敵兵がディアボロスの背中に斧と剣を突き立てていた。
だが、それは皮膚をわずかにも削ることはなく、ただ体にあたっている、それだけであった。
「くぅおぁぁぁッ!」
回し蹴り。突き立てていたはずの刃がそれ、体の崩れた兵たちはそのまま跡形もなく砕け散った。
「今のが切り札か…貴様らに希望はないッ!」
ディアボロスの拳が敵陣を抉る。
その頃本体は、圧倒的な数の敵部隊と交戦していた。
ディアボロスの予想通り、正面の部隊はわざと歩を遅らせた陽動部隊であり、多くの兵がディアボロスの進撃を迂回し、本体に襲いかかっていた。
だが、ディエンタール軍は決して圧されてはいなかった。ディアボロスが駆け出したとき、人とは異なるその圧倒的な力に、そしてそのような存在が自国の守護神であることに鼓舞され、士気が高かったのだ。そして、ウィスガフ兵はそのディアボロスの姿に震え上がり、多くの兵を見捨てる後ろめたさと、ディアボロスが襲いかかる恐怖によって浮足立っていた。
ディアボロスを包囲した敵はおよそ千。正面部隊から離れた部隊を含め合わせて三千近い兵に三方包囲されたディエンタール軍であったが、今や趨勢は完全にディエンタール軍に傾いていた。
「一匹たりとも城に近づけるな!」
隊長の檄が飛ぶ。ウィスガフ軍が数の多い騎兵を翼状に展開するフランキングによって圧倒的有利をとっていたはずだが、ディエンタール軍は弓兵がその頭を抑えたところを騎兵が突き崩し、より固く構えた歩兵が侵攻を食い止めた結果逆にウィスガフ歩兵がディエンタール騎兵の攻撃を受けることとなった。
もしここで壊滅しようものならば国が滅ぶ。早くも戦列がガタガタになったウィスガフ軍は、ディアボロスの襲撃を考えても撤退するのが最善であるのは明らかだったし、ウィスガフ指揮官もそのように考えていた。だが、ディアボロスを迂回して襲撃した以上、撤退すればディアボロスを突破しなければならず、もはや絶望的な状況であった。そして、そんな絶望的心理と指揮の迷いが戦列を立て直すことすらできず一方的な展開を許していた。
「押せぇー!押せぇー!」
一方のディエンタール兵からすれば、歩兵戦で耐えるだけでディアボロスが加わるため、あとは犠牲を最小限にするだけで必勝であった。そのさらなる士気の向上が、さらに戦闘を加速させていた。
その時、雲ひとつなく照らされた戦場に影がかかった。素早く動く、無数の影。敵味方問わず、空を見た。
「なんだ、あれは…」
それは飛翔する、無数の人にような「なにか」の姿であった。
ディアボロスは走っていた。
この世界に生まれて以来、ディアボロスは目が利く。はるか遠くから飛来するその姿を認めていた。その姿は、全く鬼のようであった。
ディアボロスは直ちに、転がっていた斧を投げつけた。それは命中し、一体を撃墜した。それを見て六体ほどがディアボロスに向かってきた。それ以外はすべて、そのままディエンタールのほうへと飛んでいった。
ディアボロスは一瞬迷ったが、その鬼に拳を叩き込んだ。感触が違った。人を殴るときには豆腐のような感触であったが、それはサンドバッグのように重い手応えがあった。そして、砕けることもなかった。倒れはしたが、力なく吹き飛んだわけではなく、倒れ込んだのだ。
警戒したか、残る五体は飛翔し、距離をとった。滞空はできないのか、手の届かないところにとどまるということはない。だが、「上に避ける」という方法があり、また「上から攻撃する」という方法があることで容易には仕留められない。
だが、ディアボロスには速度があった。駆け出す。一気に加速し、拳を突き出す。重い衝撃。大地を強く踏みしめ、腕を振り抜く。鬼の体を突き破った。
距離を取られまいと再び加速する。鬼の体を抱えたまま回り込むように走る。振り返る鬼がスローモーションに見える。穿った鬼の体を叩きつけ、さらに蹴りを叩き込んだ。
残り三体。だが、ディアボロスを包囲するように距離をとった鬼は、一体ずつこうして倒すよりほかになく、時間がかかりそうだった。ウィスガフ兵もまだいくらか残っているが、戦意はもはや全くなさそうである。
鬼とのにらみ合いの末、ディアボロスはディエンタールへ向けて走った。道を阻む鬼の一撃で打ち倒し、さらに加速して走った。景色が歪む。途中、両軍が衝突する場に遭遇したが、構わず、ウィスガフ兵をいくらか弾き飛ばしながらひたすらにディエンタールへと走り続けた。
門をつきやぶって駆けつけたディエンタールの街は既に惨状であった。あちこちで火の手が上がり、建物は無残にも破壊され、至るところで人々が殺され、さらにその体を蹂躙されている。
ディアボロスはそれらを見捨て、宿へと走った。既に鬼の群れには追いついている。奥のほうにある宿は、まだ希望があった。
今のところ破壊されている建物は壁に近い、外側の街であり、鬼も数が限られていた。そして、ディアボロスの目には攻城を進める鬼の群れが見えた。二面で作戦を展開しているか、あるいは二種類の鬼が混在しているかであるように受け取れた。
ディアボロスは己が為すことを迷わなかった。この宿を死守する。マリーを、アオカナを、ルシカを守る。それだけを心に刻んだ。
闘気が宿る。ディアボロスは今までにない力を感じた。
「ウォォォォォォォォォォォォ!」
咆哮。疾走。もはや相手が鬼であろうと関係なかった。その拳は鬼の体を砕き、大穴をあけた。勝ち誇る余裕などない。ただ目の前の鬼を破壊するだけであった。
「ォォォオオオオァァァ!」
鬼の攻撃は驚異的なものであった。体の前から光線のようなものを放つ。それを受ければ凄まじい熱を感じ、さらに爆発によって周囲もろとも吹き飛ばした。
だが、その程度でディアボロスの体は音を上げなかった。正面からその攻撃を受けながらも、ディアボロスはその拳で鬼を破壊しつづけた。鬼は飛翔して逃げるようなことはなかった。まるで盾となるかのように、隊列を崩さずディアボロスを攻撃した。接近戦では刃の長い槍を使う。だがこちらをまともに受けても、ほんのわずかな切り傷にしかならなかった。
鬼を殴り、殴り、倒しつづけていると、ふっと視界が開けた。
「ほぅ…」
そこに立っていたのは、女であった。膝まである深紅の髪。怪しい光を放つ赤い目。すらりとしながらも魅惑の曲線を描く体。背の高い、美しい、赤い、女だった。
「貴様が例の怪物か」
女は嗤っていた。「こいつは違う」というディアボロスの感覚は、なにも見た目によってもたらされている訳ではなかった。
今、周囲にはこれの他に鬼はいない。ディアボロスとしては焦って倒す理由はなかった。そして、なによりそのような無謀な特攻が、この敵の前では致命的な行為となることを感じていた。
「はじめまして。私はアルセエリス。貴様らの恐れる、魔王だ」
赤い女はそう名乗った。くっくっくと笑い声を漏らす。
「この戦場で自己紹介か?いいだろう、俺は悪魔だ」
挑発的に笑い返す。だが、いささかぎこちなくなった。
アルセエリスは少しきょとんとしたあと、面白そうに嗤った。
「悪魔か!それはいい。なら同類同士、仲良くしようじゃないか」
ディアボロスはわざとらしく肩をすくめた。
「貴様が俺に従属するというなら、まぁ考えないでもないな」
会話はそこまでだった。同時に構える。アルセエリスは既にディアボロスの攻撃を見ていた。尋常ならざる速度と、そこから生み出される破壊力。武器はなし。そして強固な肉体は、鎧も建物も破壊する光線撃すらもはじく。一方のディアボロスは、このような鬼を率いる、ただの麗人に見えるアルセエリスがいかなる能力を持つのか、全く予期できなかった。
口火を切ったのはアルセエリスであった。アルセエリスが腕を振ると、周囲に黒い球がいくつも浮かんだ。それは非常にゆっくりとした動きで浮遊する。
その威力は不明だが、ディアボロスはそれにわざわざあたりに行こうとは思わなかった。素早く回り込み、アルセエリスを粉砕すべく加速する。だが、そこに光線が襲いかかった。
「ぐぉぉぉぉぉぉっ…!」
かなり痛い。そして何より、爆発に体が押され、後退し、足が留まった。アルセエリスは逃さず、黒い球をばらまいた。
ディアボロスは飛び退いた。距離をとって様子を見ようとした瞬間、アルセエリスが手を縦に振った。次の瞬間、ディアボロスの体に強い衝撃が走った。
「っぐぉ…っ…」
ぐらりとゆらいだ体に黒い球が衝突する。すると体の中が爆発するような衝撃が遅いかかった。一撃はさきほどのものと比べれば軽い。だが、一度にばらまいた量だけでも数十はある。それらに触れるたびに衝撃が襲い、ディアボロスは膝をついた。
次の瞬間、アルセエリスは目の前にいた。反応は間に合わない。衝撃は後ろから来た。
焼けるような鋭い痛み。次の瞬間にはもうアルセエリスは距離を取り、黒い球をばら撒いていた。手には、巨大な鎌。
(なるほど…)
首に血の伝う感覚があった。普通、剣であれ斧であれ槍であれ、攻撃は相手の体がある方向から来る。だが、鎌の場合は横や後ろから来る。非常に読みにくい攻撃だった。
(強い…)
これだけの攻撃を受けてもダメージは小さい。その意味で単純な強さであればディアボロスのほうが上だということは、ディアボロス自身にも自覚はあった。恐らくは、一撃を入れることさえできれば決定的なダメージになるだろうということも。だが、手数の多いアルセエリスの攻撃を前に、近づくことすらできない。その衝撃で体は自由に動かない。強引に突撃するという方法もまた効かなかった。
「せぃぃっやぁ!」
大地を踏みしめ、殴りつける。大地が揺れ、衝撃がアルセエリスを襲う。だが、アルセエリスはふわりと宙に浮くと、手を縦に振った。一瞬遅れて体に衝撃が走る。それは黒い雷であった。
体の自由を失い、踊らされるところへ黒い球で動きを制限される。黒い球で長く拘束されれば鎌の斬撃を防げない。三種類の攻撃は確実にディアボロスの手を封じ、ダメージを蓄積していた。加えて上方への回避があり、回避しながら攻撃もできる。一方、ディアボロスとしては高速で近づいて殴るか、直接当てないまでも衝撃波で攻撃するかのふたつしか手はない。黒い球が接近を絶妙に阻んでいた。
より力をため、より強み踏み込み、より速く拳を打ち出す。大地が揺れ、衝撃波でガラスが飛び散った。アルセエリスは鋭く察知して飛び退いたが、逃れられなかった。
「っあ…」
体に衝撃、血が飛び散る。だがひるまない。手を二度、三度と振る。
雷撃。ディアボロスは防げない。体に衝撃が走る。次にきたのは大地から飛び出た黒い刃であった。ディアボロスを穿とうと放たれたが、ディアボロスの体は貫くことはできず、しかし強く鋭い衝撃がディアボロスを襲った。
後ろへと弾かれたところへ今度はアルセエリスの手から超高速の黒い球が放たれた。避けようとしたが、体の自由が利くのが遅かった。さらなる衝撃。ディアボロスははじき飛ばされ、後ろの民家を破壊しながら転がった。
怯まない。ディアボロスは立ち上がり、さらなる闘気を見せる。衝撃波で家を吹き飛ばし、土煙の中突進した。
アルセエリスは再度宙に浮く。黒い球のばら撒き。ディアボロスはそこにつっこみ、体を踊らせた。宙から勢い良く降下。今度はアルセエリスの手には剣があった。降下の勢いのままディアボロスを切り裂き、そのまま走り抜けて黒い球をばらまく。ディアボロスが追撃を諦めたところで宙に舞い、閃光を放った。これまでの鬼、否、悪魔とは比べ物にならないほどの強烈な閃光、衝撃、熱。だが、耐えた。そこに襲いかかる雷撃。足を長く止めすぎたことで襲いかかる黒い球。アルセエリスの斬撃。超高速の球。またばら撒かれる球。
ダメージが蓄積する。だが、ディアボロスは激しい痛みを感じながらも、闘志は増し、速度も増し、拳にはさらなる力が乗っていた。アルセエリスはその巨体が、さらに大きくなっていることを感じていた。
大地を蹴る。大地を震わせ、跳躍する。空中からの突進。黒い球を空中には展開していなかった。アルセエリスはもはや本能で正面に魔力壁を展開した。それは黒い球の巨大なものに等しい。そこに突進したディアボロスには、体が弾け飛ぶのではないかという衝撃が襲った。だが、それはディアボロスの拳を受け止めきれなかった。その拳が、ついにアルセエリスの体に届いた。
その頃、宿では女たちが身を寄せ合っていた。
状況は把握していた。あの赤い女が魔王であることも、ディアボロスがこの宿を守っていることも。
臆病なルシカが体を縮こまらせ、それを抱きしめるアオカナもまた、恐れと不安を目にたたえていた。
「逃げましょう」
ただひとり、恐怖に捕われていなかったマリーがそう言った。
「え?」
何を言っているのかわからなかった。
「旦那様を見捨てるというのですか⁉ いえ、それだけではありません。旦那様が、あの女に負けるとでも?」
アオカナが強い意思を目に取り戻し、反論した。だが、マリーは落ち着いた様子で答えた。
「違います。ディアボロス様はここを守っています。しかし、このままではディアボロス様は全力で戦えません。少し離れましょう。ディアボロス様が全力で戦えるように」
もはや戦いは一方的なものではなくなっていた。魔力壁によって防ぎながらも攻撃を受けたアルセエリスのダメージは深く、攻撃は緩めてはいないものの、いつ倒れてもおかしくはなかった。直撃を受ければ死は免れない。
さらに巨大化したディアボロスの速度は速く、突進からの切り返しで再び突進されるのを防ぐのが難しくなった。全方位にばら撒こうにも、ばら撒いた直後は距離が近すぎてディアボロスの捨て身の攻撃の衝撃波から身を守れない。
一方のディアボロスも、攻撃を受ければ足が止まり、追撃を受けた上に動きを封じられる。攻撃を受けずにアルセエリスに届かせることはできず、既に蓄積したダメージはディアボロスの足をふらつかせていた。
アルセエリスにはまだ手が残されていた。ばら撒きの数。黒い球の間を縫う閃光の精密射撃。空中から降り注ぐ魔力弾。小さい魔力弾の連射。自在に生じさせ、消すことのできる武器もまだ種類がある。しかしそれはもはやディアボロスを封じ込めるのに十分な手とは言いがたかった。
ディアボロスの加速と、黒い刃のタイミングが偶然に合った。アルセエリスは期を逃さなかった。魔力弾の連射で制圧。起き上がるタイミングで、鎌を大きく振りかぶった。
勝負手だった。完全に封じた状態でなければ、ディアボロスからの反撃を受ける可能性がある。そして、反撃を受ければ死は免れない。それでも、ディアボロスを封じる手を止めて、魔力を武器に注ぎ込んだ。
ディアボロスはその隙を逃さなかった。起き上がり、手で体を支えながら拳を突き出す。
賭けに勝ったのはアルセエリスだった。拳を突き出すよりも速く鎌が首を狩り、さらにその勢いで回転しながら首を切り裂いて宙に舞った。激痛からディアボロスの手は宙を彷徨い、倒れ込んだ。
ディアボロスは血を撒き散らして倒れたが、アルセエリスには必殺の手はなかった。武器を剣に持ち替え、魔力を込めて突き立てる。切っ先にわずかに体に突き刺さったに過ぎなかった。刺突は難しいと見たアルセエリスは切り裂きながら距離を取り、超高速魔力弾の連打に切り替えた。
首を切り裂かれ、血を撒き散らしたディアボロスだが、まだ生きていた。一時は意識も遠のいたが、体を打ち付ける強烈な衝撃が覚醒させた。まだ立てる。飛び退くと、拳を突き出して魔力弾を叩いた。
もはや力の爆発であった。弾かれた魔力弾をアルセエリスはかろうじて避けた。ディアボロスが大きなダメージを負った状態で再び事態は膠着した。黒い球をばらまく。急速に転換するような負担の大きい技を使いにくくなったディアボロスは、機を狙ってアルセエリスを睨みつけた。足の鈍ったディアボロスを雷撃が狙う。しかし、雷撃の発生には少し間があった。ディアボロスはこれを回避し、にらみ合いが続いた。
そのとき、ディアボロスの視界になにかが移った。それが何なのか、認識する前にディアボロスは突進していた。
アルセエリスは、明後日の方向に走り出したディアボロスを見て、切り返しのり攻撃を予測し球をばら撒いた。だが、それは違った。ディアボロスが走ったのは、その先にいた悪魔を狙ったものだった。そして、その悪魔の目の前には少女の姿があった。
悪魔が気づいた時にはその頭は握りつぶされ、ディアボロスは正面の建物を破壊しながら突進していった。
アルセエリスが呆気にとられていると、次の瞬間凄まじい衝撃を感じた。
視界がぐらつく。何が起きたのかわからなかった。
アルセエリスは、予想もしないディアボロスの行動に気を取られた。さらに、ディアボロスがそのまま建物に突っ込んだことにも気を取られた。そこから加速してくることを予測せず、球を展開しなかった。
ディアボロスは、悪魔の体を掴んだまま加速した。そして、一直線にアルセエリスに向かって突進し、悪魔を投げつけた。悪魔とぶつかり、アルセエリスの体が宙を舞う。自ら浮いたわけではない。滞空できないアルセエリスに空中の自由はない。ディアボロスはアルセエリスの落下点目掛けて飛んだ。
何が起きたのかわからなかった。
気がついたときにはディアボロスの体は地を這い、回りの大地は吹き飛び、えぐれていた。
「ぐっ…ぅっ…」
膝をついて立ち上がる。
「悪いけど」
男の声がした。
「君にこの子をやらせるわけには、いかないな」
気力でなんとか踏ん張って立ち上がる。その姿が見えた。
白い服。白いマント。金色と水色の刺繍。金色の髪の美男子。ヒーロー。主人公。正義の味方。そんな言葉がこの上なく似合いそうな男が盾を構えて微笑みかけていた。
その男の後方にはアルセエリスが横たわっていた。ようやく状況を理解した。アルセエリスにとどめを刺そうとしたディアボロスを、この男が介入して止めたのだ。そしてその威力は、アルセエリスの一撃とは比べ物にならない破壊力であった。
「悪魔は俺達が引き受ける。この子は俺がもらっていく。君にも悪い話じゃないだろう?」
俺達?ディアボロスは疑問に思って周囲を見回した。その視界に、宙を舞う、武器を手にした少女たちの姿が目に映った。自分が何を見ているのか、ディアボロスは理解できなかった。
「そっちの子も無事だったわけだし」
男が指差す。その先にいたのは、先程悪魔から救った少女。先程は体が勝手に反応したが、こうして見直して思い当たった。それは、男に追われ、ディアボロスに助けを求めてきた少女だった。
「どうしてもやりたいって言うなら、仕方ないけど。君の守りたいものを守れなくなってもいいならね」
男はそう言うと剣を抜いた。金細工の施された、白く輝く剣。さながら勇者の聖剣であった。
ディアボロスは身構えたが、冷静さを取り戻していた。
現実を見れば、ディアボロスがアルセエリスはもはや生きているのか死んでいるのかもわからず、この戦いはディアボロスの勝利と見ていい。ディアボロスは、アルセエリスを仕留めることができるはずだ。
だが――そうする必要があるだろうか。
別にアルセエリスが復讐すべき相手ということではない。目的は殺すことではなく、自分の女を守ることだ。そのためにはアルセエリスを含め、全ての敵を撃滅する必要がある。
しかし、この男は悪魔も、アルセエリスも、自分たちが引き受けると言っている。それを拒否すれば戦うと。つまり、この提案を受け入れればこの男は戦う気はないのだということになる。ディアボロスは一人ですべての悪魔を撃滅してこの国を救える状況にはない。ただ、ここで悪魔を迎え討つだけだ。それと比べれば、正体不明の軍勢で襲来したこの男に任せることは、よりうまく行く選択であるように思えた。
そして何より
(こいつは、なんだ…)
この男が、そして宙を舞う少女たちもただの人間でないことは明らかだった。アルセエリスの比ではない。ディアボロス自身よりも強い可能性すら考えられた。そして、それが軍勢である。大きな傷を負った今、この男と戦うことは現実的ではなかった。
「悪魔どもはすべて殺すのか」
「殺すと約束はできないな。でも少なくとも、追い出すか、殺すか、消滅させるか、そのどれかではあるね」
そう笑顔で語るが、男には隙がない。いつでも戦える体勢のままだった。
「わかった。貴様に任せる…」
それを聞いて男は剣を収め、踵を返すとアルセエリスを抱え上げた。それを見て、ディアボロスも背を向け、宿へと向かった。
何か違和感を感じながら歩く。
そして気づいた。
宿が、なかった。
跡形もない、ということはなかった。ただ、建物はぐしゃぐしゃに潰れ、もはや中に入るということはできなかった。
ディアボロスは必死で瓦礫をかき分けた。それでも、もしかしたら瓦礫に埋もれて苦しんでいるかもしれないと、速く、丁寧に瓦礫を放った。
しばらくそうしていると、ぐにゅりと柔らかいものに触れた。冷たい汗が流れる。そっと瓦礫をどけると、ぐしゃぐしゃに潰れた生き物の体がそこにあった。
心臓が止まるかと思った。だが、なんとか頭を回転させる。
違う。これは宿の下にいた女だ。宿の主人にここのことを任されていると言っていた。
カラカラに渇いた口の中を、渇ききった舌で舐め、そっとその体をよけると瓦礫をどかしつづけた。もうだいぶ片付いた。形がなくなって埋まっているようなものはもうない。
(うまく逃げたのか…?)
可能性はある、と思った。特にマリーは機転が利く。激しくなる戦闘に、この場を離れたほうがいいと考えるかもしれない。そうなると今度は悪魔に襲われたのではないかということが心配になるが、もはやあの男の軍勢によって救われることを信じるしかない。
ディアボロスは地面に広がる瓦礫をどけることをやめ、建物らしき姿をわずかに残した部分にもたれた瓦礫をどけた。
湿った、嫌な、感触が、した。
手が震える。瓦礫をそっとどけた。
そこには、跡形もなく潰れ、あらゆるものが飛び出した、体だったものがあった。
それは、きれいな、紺色と、白色の、赤黒く染まった布を、まとっていた。
マリーだった。