暗い地下の円形の一室に、黒いローブ姿の男女二十名弱が魔法陣の中心に向かってぼそぼそと呪文を唱えている。魔法陣の中心近くには四名の裸の少女が縛り上げられ、転がされていた。
魔法陣は少しずつ赤い光を増してゆき、それと共に室内は黒い煙が満ち始めた。そして煙が満ち、視界が失われた頃、その煙の中心にひときわ濃い影が表れた。それと共に感嘆の声が上がる。
そしてその影はどんどん巨大化してゆく。そして現れたのは、筋骨隆々の巨大な裸体の男であった。
「……なんだ、ミノタウロスか」
ローブの男がつぶやく。
「まぁいい」
そして男はその影の正面に立つと両手を広げ、声を張り上げた。
「我が貴様を呼び出した主である!盟約に従い、我が命を受けよ!」
巨大な影はじろりとその男をにらみつけると、大きなため息を吐き
「……なっ!」
驚愕の声が上がる。男の体が破裂し、血と内蔵が飛び散った。場は悲鳴と混乱に包まれる。
近くにいたものから順にはじけていく。何が起きているのかは当たりに満ちる煙もあって全く視認できない。最初に、ローブ姿の女が逃げ出そうとドアに飛びついた。しかし、召喚された者を従わせる前に逃さないようにと固く閉じた扉は、まるでびくりともしなかった。閂を外そうと手をのばすが震えた手が滑った。そして、その女にとってそれが最後の記憶になった。
「深想の塔」
それは、この王都にあって最も高い建物であり、後宮のはずれに立てられた王族所有の塔であった。噂によれば、このディエンタール王国の初代国王が物思いにふけるために建てさせたと言われている。
いずれにせよ、王都に住むものにとっては、なにせ目立つものであるからランドマークではあるのだが、一方で一切縁がなく、それがなんのために存在するものであるかもわからないために、不気味で謎な存在だと言われている建物であった。
そして今日、初夏のよく晴れた日に、突如としてそのランドマークは轟音と土煙と共に消滅した。
「早く支度をしろぉ!敵を近づけるなぁ!」
初老の豪奢な服を着た男が叫ぶ。既に城の扉は見るも無残な形となっていた。
事が発生したのは王城の敷地内である。そのために城門の守りは意味をなさない。城内にいる兵士などたかが知れている。戦のために用意していたわけでも、このような事態を想定して警護していたわけでもないのだ。兵士は広く城下に住み、任務に応じて招聘される。現在こちらに向かってはいるだろうが、兵装を整え、城までたどり着くには相当な時間がかかるだろう。まして、騎士たちが兵装を身につけるのにかかる時間など、この化物が猶予してくれるはずもない。
「こンのクソ、化物めがぁ!」
城内、そしてすぐに駆けつけられる兵士がこの広間に揃い、約三十名のパイク部隊が前を固め、その後方に約十の魔術師、さらには後方からも取り囲むように十の槍兵が巨大な男を取り囲んだ。
伝令では「ミノタウロス」とのことであったが、この男はどうも人間に見える。確かに、その体躯は二メートル半にも及び、巨大ではあるものの、その顔は厳しい人間の男そのものであり、神話の怪物には見えなかった。
「突撃ィ!」
初老の男の声で槍衾を狭めつつ、魔術師は詠唱を開始する。巨人の右手には折れて短くなったパイク。そして
もはや誰も立ってはいなかった。その広間にいたはずの人影はもう随分と少ない。巨人の前方にいた者は跡形もなく消え去り、それ以外のものも爆風と轟音によって意識を失った。
巨人は悠然と階段を登り、時折突撃する兵士を蝿でも払いのけるように消し飛ばし、そして居館へと至った。
木の棒一本で魔王に立ち向かうRPGに慣れた者の感覚で言えば、王に相まみえるときには謁見の間で玉座にふてぶてしく座っていてほしいものだし、巨人も実際に最初に謁見の間に向かったのだが、王は不在であったため、結局居館にたどり着いた。居館で邪魔な者をはじき飛ばしながら王を発見したとき、王は王妃、そしてふたりの王女と共に部屋の隅にいた。
「き、きき、貴様は何者だ」
巨人は静かににらみつける。一分ほどの間の後、口を開いた。
「貴様が呼んだんだろう……?」
大地が震えるような太い声であった。王は恐怖にかられたが、少なくとも言葉は通じるようであると安堵もしていた。
「何が望みだ……?」
「一方的に俺をここに呼びつけたこと、挙げ句俺を従わせようなどとした愚かな行いに対する、謝罪と償いだ」
巨人の目に、言葉に生気はなかった。怒りも、憎しみもない。ただ、そうするのが当然であるという信念と機械的な行動だけが姿を見せていた。
「わっ……わしにできることなら、なんでもしよう。だからどうか、その怒りを鎮めて欲しい」
「…………………………」
巨人は長く沈黙した。巨人が王を値踏みしていることは明らかであり、王は今取るべき適切な態度を考えた。少なくとも、交渉の余地はあるのである。でなければ、この巨人は考え込むようなことはしない。交渉の余地があるということは、この巨人は条件次第では考えを変えるということである。城を吹き飛ばしながらここに到達したことを考えれば、この巨人に逆らうことに意味はない。その逆鱗に触れれば、たちまち娘たちもろとも消え去ることとなるだろう。そして、この巨人は王という地位に関心はない。よって、偉そうにすればその機嫌を損ねる可能性が高い。かといって、遜れば交渉に乗らないだろう――
「話をする用意がある、ということか」
居館が震えるようであった。王は立ち上がると重々しく頷いた。
「…………服と茶を用意し、席を整えろ。席にはその三人も座らせろ。貴様が下であること、くれぐれも忘れるなよ」
「わかった。すぐに用意させよう」
王は生き残った兵と侍女に声をかけ、大急ぎでホールにテーブルを用意した。直ちにできる中で最高のもてなしをするよう命じ、その上で先に他の者を座らせた上で自ら巨人を案内した。茶に毒を盛ることは少しは考えたが、この男の、もはや常軌では考え得ない強さを鑑みれば通用しない可能性が高いと、そのリスクは避けた。
途中、血と瓦礫にまみれた城内を目の当たりにすることになったが、それについては考えないことにした。
困ったのは服である。なにせこの巨人は王としても見たことがないほど立派な体格であるから、それに合う服など存在していなかった。そのことを正直に巨人に告げると、巨人はシーツで良いと答えた。王は侍女に、簡単で良いのでシーツを衣服に仕立てるように命じ、これを巨人に渡した。巨人は満足そうではなかったが、納得はしたようであった。
「まずは貴様には情報を提供してもらおう」
「情報とな?」
王はここまでこの巨人と接し、この巨人が高い知能を有していると判断していた。確かにいくらか粗暴な面を持ってはいるものの、ここまでのそれは「敵に対する戦闘行為」であり、「敵ではない」と認識する限りどちらかといえば理知的に振る舞うようであった。そして、たとえ粗暴な振舞いをするとしても知能が優れていることに変わりはない。つまり、交渉の余地はあるが、謀ることは難しく、また戦闘となれば単に力任せで戦うわけではない、ということを意味している。
巨人もまた、この王がただ愚かではないと認識していた。どのように振る舞えば自身に、家族に、民に被害が及ぶのかということを考えた上で行動しているし、現実主義的に効果的な振舞いをしている。
「なぜ俺をこんなところに呼んだのか。どのようにして呼んだのか。そこからだ」
「あぁ、そういうことであるか……」
巨人が求める通り、王は説明をした。
現状でディエンタール王国は周辺諸国との関係性が良いとはいえず、散発的な小競り合いがつづいている。それぞれが覇権争いを続けており、戦争状態はもう長年つづいている。その状態にあって、魔王が復活し、魔王軍がゆるやかに進軍する状況にある。そして魔王復活に触発されたか、モンスターや様々な種族の動きも活発化し、各地で治安が悪化、ジリ貧の状況で滅びを待つばかりとなった。
ディエンタール王国はそれほど軍事力が高くはない。そもそも人口が周辺諸国よりも少なく、国力においても劣る。だが、切り札があった。「異世界から召喚し、使役する禁断の魔術が秘蔵されている」ということである。これは、初代ディエンタール国王が覇権を取るにあたり行使した力であるという。もうどうすることもできないところまで追い詰められた現王は、神や魔王すらも召喚するというこの魔術に賭けることにした。そして、召喚には成功したが、使役には失敗したのだ。
「ふん……つまらんことにまきこみやがって。だがまぁ、そうする理由があったことは理解した」
王は巨人がこの説明に怒り狂わなかったことに安堵すると共に、やはりこの巨人はかなり理性的で打算的なのではないか、という確信を強く持った。
「それで、今度は貴殿のことを聞かせてはくれまいか。貴殿は一体何者なのか」
王がそう問うと、巨人は顔をしかめた。
「俺は異世界に住む、ごく普通の人間だ。だが、記憶が随分とあやふやで、覚えていることはあまりない。どうやってここに来たのかも覚えてはいない」
「貴殿の、名前は」
「それも覚えてはいない」
王には巨人が嘘はついていないように見えた。しかしそうなると困った。巨人からすればわけも分からず呼び出され、突然に従属を求められた。さらに、自分が何者であるかすらもわからない状況であり、混乱と怒りでそれをもたらした者を敵と見做し戦闘を行った。極めて理解できる状況である。だが、王には「元の世界に戻す」という選択肢がない。その方法がわからないのだ。そうなるとこの巨人を納得させることは、ひどく難しいように思えた。
「どうだろう、貴殿にはわしに力添えをお願いすることはできないだろうか」
「……ふざけているのか?」
「ふざけてなどいない。考えてみてほしい。貴殿はこのあと、この交渉が決裂したとして、これからこの世界で生きていくには少々不自由なのではないか。もちろん、貴殿ほどの力があれば敵を殺し、必要なものは奪い、生きていくことはできるだろう。しかし、貴殿がそれを望んでいるようには見えん。一方で国としては貴殿の力を必要としているからこそこうして召喚するに至ったのだ。この国に貴殿を元の世界に戻す手段はない。となれば、貴殿を呼び出してしまったこと、あるいは戦闘によって失われた多くの命について語り合うよりも、互いの利益のために話し合うほうがよいとは思わんか」
「ふむ……」
巨人はにやりと笑うと考え込んだ。互いに、「交渉の通じる相手である」と認めた瞬間であった。
「貴殿の望みはなんだ。わしに叶えられることであれば用意させてもらおう」
巨人は随分と長く考えて、次のように口にした。
「――これで全てというわけではないが、安寧を得られる暮らし、不自由しない金銭、そして好きなようにできる女ども、だ」
王は、嵐のように現れた巨人が去ったのを見届けると、ぐったりと椅子に座り込んだ。
「随分と下賤な要求でしたわね」
王妃がそう口にした。確かに、最初王がその言葉を耳にしたときも、自分の耳を疑ったほどに下賤で世俗的な希望であった。だが、
「そう、一筋縄ではいくまい」
あの言葉を発したとき、あの巨人には歓びも、ぎらつきも、飢えも感じなかった。つまり、それが欲しいものではあれど、「望むものが手に入らない」という判断のもと、「調達しやすいがそう容易ではないもの」を並べたのだ。
「まだ、試されておるのだよ」
それを用意したとき、改めて交渉のテーブルにつく、そう言ったのに等しい。しかも金銭以外はいささか曖昧な要求だ。何を、どうやって用意するかということも見ようというのだろう。例えば、街から娘を無理やりに連れてきて、あの巨人にあてがったとしたら、あの巨人は愚かなる王として再び敵になるかもしれない。だが、一方で、王が自らの民を犠牲にしても望みを叶えようとするかどうかを試しているのかもしれないのだ。もちろん、最も単純には「娘を人質に出せ」という意味でもあるだろう。だが、恐らくそれは「最も普通な答え」であり、あの巨人にすれば「ダメではないが落胆する行為である」可能性が高いと考えている。もちろん、王としてもそれは避けたいことだ。
「悪魔―ディアボロス―、か」
名前がなくては今後困るであろうから、仮で良いので何か名前を考えて欲しいと巨人に告げたとき、巨人は少し考え込んでから「ディアボロス」と告げた。もしかしたら、我々は異世界の魔王を召喚したのかもしれない。あの魔術は、それが可能であるとされていたのだ。不思議はない。魔王に対抗できる力ではあるのだ。
「やるべきことは多い。ゆっくり休んでる暇はないだろう」
王は力の入らない体を、なんとか起き上がらせた。
ディアボロスは王のあの場での判断にそれなりに満足していた。要求は、その場で答えるのはなかなか難しい。もちろん、適当な用意ならできただろうが、ディアボロスとしては適当な女をあてがおうものなら即座に殺す気でいた。「貴殿にも好みがあるだろう。その要求の内容は、満足できるように随時提供させていただこう」という答えは、満足に足るものだった。
王が即座に用意したのは、現金と、身分であった。当面遊んで暮らせるほどの金と、街で不自由しない身分によって「安寧の暮らし」を仮に実現したわけである。もちろん、これが仮であることは承知の上、館を立てるのも一朝一夕とはいかないと現状で不自由のないようにしたわけである。
さらに、王はこの世界に不案内なディアボロスのために、侍女を一名つけさせた。これが大変に重宝し、とても怯えて困りはしたが、食料と宿を確保するのに不自由しなかったのである。
(ここまでは良いけども)
正直、生きていく上で住処と食料さえあればなとんかなる。不安としては、風呂がないこと、便所が不衛生であること、そして溢れる糞尿と溝の匂いがたまらないことだが、どうもこの世界は中世程度の文化であるようなのでどうにもなるまい。
侍女を抱くかどうかは正直迷った。ディアボロスは無尽蔵の性欲と精力を持っているので、いささか我慢は苦痛なところではあるが、王が案内につけた侍女を、案内も終わらないうちに手篭めにしてはあまりにも軽薄にすぎる。それは今後の交渉にも影響するかもしれない。それよりは、この驚くほど要領と察しのいい侍女とは信頼関係を築くほうがメリットは大きいだろう。
「マリー、次にすべきことはなんだと思う」
ディアボロスは侍女に問いかけた。依然として怯えてはいるが、だいぶマシになった。
「お召し物を、ご用意されてはいかがでしょう」
「……そうだったな」
一番最初に要求したものだったのに忘れていた。
「だが、俺に合う服があるのか?」
「街の仕立て屋なら、オーダーメイドで作ってくださるはずです。ご案内致します」
「おう。マリーは有能だな」
なごませるつもりでニカッと笑ったのだが、マリーはすっかり怯えてしまった。
宿を出るときには、ドアをぶち破りそうになったり、天井をぶち破りそうになったり、床がぶち破れないか不安になったりととにかくその巨体の扱いにこまった。記憶の限りではここまで巨大な体をしてはいなかったはずだし、このような超人的な力もなかったはずだが、召喚にあたりなにか特別な能力が付させた、というか全く別物の体になったのだろう。宿の女たちの恐怖の目が気にはなかったが、今のところディアボロスの戦略としては意図や嗜好を明らかにせず、恐怖の対象にしておくことであったから、その点については努めて気にしないようにした。
街に出ると視線が気になる。こんな目立つ体躯では当然ではあるのだが、好奇の目と恐怖心があまりにも突き刺さる。
「おい、マリー。みんな随分俺のことを見るな?」
「……ディアボロス様が城で暴れ、城内の兵を皆殺しにしたと、噂が立っているのです」
マリーが小声でささやく。なるほど、それならば仕方ない。今後街で暮らす上でとても困ってしまうが、そのままにしておくよりほかにないだろう。実際、仕立て屋でも主は恐怖のあまり座り込み、失禁してしまったが、これも気にしないことにした。
仕立て屋では簡易な服をとりあえず作らせ、好みに合った服を五着ほど作らせることにした。うち三着は現代的な―Tシャツスタイルの服であり、残り一着は巨人の戦士として相応しい服と、威厳と威圧感のある服である。
仕立てを終えるとすっかり夜になってしまい、マリーを従えて宿に戻った。ディアボロスは現状あらゆることでマリーの案内が必要であるため、同室とし、常に傍にいるように命じた。
「ところでマリーは、王からどのような命を受けているんだ?」
そう問うと、マリーは表情を曇らせた。
「ディアボロス様を案内せよ、ディアボロス様の命じることには須らく従うように、と」
「ふーん……では質問を変えよう。マリーは自身の任務がどのようなものであると考えている?」
「それは……」
言いよどむとさらにその表情を曇らせる。
「ディアボロス様を案内し、陵辱され、その役目を終えたときにはディアボロス様の食事となることだと……理解しております」
ひどい誤解だ、と思ったが、いや俺はそのように思わせようとしているのだったと考え直す。少なくとも、マリーは一時的に貸与されているわけではなく、マリー自身は恒久的に従うものだと理解している。一方で、王の命としてはマリーを俺に与えたわけではない、つまり俺が要求した「女」にマリーが含まれているわけではないと理解した。つまり、「返却は求めていない貸与」というわけだ。
「とりあえずマリーをとって食おうという気はない。俺が困らないよう、案内をしてくれ」
そう言うとディアボロスはマリーをひょいと持ち上げ、ベッドに押し込み、自身も寝ようとした。だが。
「……大丈夫、ですか?」
マリーが心配そうに言う。マリーと添い寝をするどころか、たとえマリーがどいたとしても、その巨体はベッドの中には収まりようがなかった。
異世界二日目。ディアボロスの一日はベッドの調達からはじまった。
マリーの提案により、宿にあるベッドをよっつ並べることで、なんとかその巨体が収めることができた。
次にしたのは、兵装の用意であった。マリーはあくまで侍女であるから、兵装に関する知識はあまりない。無論、侍女である以上鎧を着付けることはできるのだが、兵装に何を選択すべきかを知っているわけではないのだ。
「ディアボロス様は力がありますから、重鎧がよろしいのではないでしょうか」
マリーはそう言ったが、どうもこの体の強度を考えるに鎧をつけることで防御力が上がるのかどうかにはいささか疑問がある。そして、それより問題なのは武器である。
今のところディアボロスの力というのは、単なる筋肉ダルマである。例えば槍を投げれば衝撃波が発生し、当たりを粉砕してしまうほどだから、もはや尋常ではない力があるのは間違いないのだが、どうもこの世界において筋肉が全てであるというのはいささか弱い気がするのだ。
既に理解していることとして、この世界には魔術がある。塔での戦闘で魔術攻撃を受けた感じでは、この肉体は魔術攻撃をも跳ね返す強度がある。だが、この世界においては魔術は「特殊火器」のようなものであるようだった。つまり、本来城内で使うような魔術は本筋ではなく、より戦術的に利用するもの、巨大な爆弾のようなものだろうか。なんとなく編成を見る限りでは、騎馬兵、槍兵、弓兵といった「近づけない」戦い方が基本であり、これによって防衛線を守った上で魔術が発動すれば決まり、という印象だ。問題は、その「戦術的に使用される魔術」というものを見ていないので、その破壊力のほどがわからず、この肉体がそれを弾き返すほどの力があるのかどうかがわからないということ。そして、明らかに現在の筋力攻撃はそのような戦術的魔術と比べると見劣りする、ということだ。
このことから、ディアボロスの戦闘能力としては、軍勢を一気に退けるための攻撃力と、戦術級魔術に耐えるための防御力が必要である、という判断に至った。
「店主、安いやつでいい、一通りくれ」
「へい、一通り、とおっしゃいますと?」
「そうだな……剣、槍、弓、それからあのハルバードがいい」
「……?へい、ご用意いたしやす」
店主も何の注文なのかとひどく疑問そうだったが、武器について明るくないマリーでさえも同様だった。
「ディアボロス様、なぜそのようなご注文を?」
「自分にあった武器がわからないんだ。今はとにかく試す」
そうして武器を用意させると、ディアボロスは壁外へと出た。壁外に出るまではマリーに案内させたが、危険性を鑑みてマリーには宿で待機するように命じた。もちろん、これは壁外に閉め出される可能性もあったが、昨日試した限りでは防衛壁そのものを破壊するのは難しくなさそうであったし、特に心配はしていなかった。
「さて……」
壁外に出ると、道沿いにはかなり多くの兵士が立っており、哨戒と、モンスターへの警戒を行っていることがよくわかった。実際、道を外れればいかにも危険な謎の生物がうようよおり、いかにもモンスターという感じである。想像以上に「壁外に出るのは困難」という様子であり、これでは貿易が難しいだろう。貿易が難しいということは、資源的にもこの国はジリ貧である状況がう伺えた。
ディアボロスは迷わず道を外れ、草原へと進む。割と背の高い草が生い茂っており、足元に毒性の生物がいないかということが気になった。だが、見たところではモンスターは変形した動物のようなものが多い。これには率直に強く安堵を覚えた。もしモンスターというのが巨大化した虫などであったら、戦力とは別の意味で戦闘はかなり厳しいものになっただろうから。
ともかく、まずは手近な巨大な熊のような生物に向かっていく。武器は、最もスタンダードだと思われる剣だ。まずは相手の警戒範囲に入る前に、素振りする。
「っつぇい!」
次の瞬間、キーンという音と共に一瞬何も聞こえなくなった。そしてその視界に映ったのは、周囲のものがなぎ倒され、巨大な熊が吹き飛ぶ光景であった。そしてひと呼吸起き、剣からうっすらと炎が立ち上った。最初はそのようなすごい剣なのかと思ったが、炎が木製の柄へと燃え移り、柄が炎上したのを見てそうではないと悟った。
とりあえず消化し、状況を考える。完全な全力ではなかったが、魔力的な何かが発生しているのか、もしくは物理的に衝撃波が発生しているのかによって、剣による攻撃は「当てる必要はない」。一方、周囲に幅広く被害が出ていることを考えると、街中でこれをやってしまえば甚大な被害を出すことになるだろう。つまり、この攻撃は先の戦闘のように敵陣の中にいるときしか役に立たない。加減も効かないので、戦闘となれば殺す以外の選択肢はない。マリーを同行させなかったことは正解であった。同行させていたながら巻き添えになることは避けられなかっただろう。
物理法則が元の世界と同一なのかは不明だが、とにかく自分が想像するよりとんでもない肉体を持つことが確認できた。加えて、鉄が発火したとなれば相当な高温―少なくとも三百度は越えているはずだ―になったはずだが、特に熱いとも感じなかったので防御面でも相当な強度を持っているようであった。
そして、もうひとつ気づいた。
剣を振ったとき、いかにして振るべきかを理解していた。それだけではない。この世界にきてからこの世界においてどう振る舞うべきかを明らかに理解している。でなければ、先の戦闘だって恐怖に竦んでいてもおかしくはないし、それ以上にあれほどの殺戮を躊躇なく行うことなどできなかったはずだ。つまり、肉体的にも精神的にも「元の世界の自分を持ち越したものではない」ということだ。
「とはいってもな……」
これが果たして本来の自分なのかどうか、というのは全くわからない。少なくとも「元の世界の記憶」が多少なりとも存在し、「この世界に召喚された」という点に関しては間違いないのだが、どちらかといえば実感としては「この世界に存在するものに元の世界の記憶が混ぜ込まれた」と考えるほうがしっくりくる。それを確かめることができないのは、元の世界で自分がどのような姿をし、どのような性格で、どのように振る舞っていたかが思い出せないからだ。そもそも、本来の自己自体がわからないのである。
不安と落ち着かなさはあるが、現実的には最初からその世界に適合した存在であるということは有利な点であることは間違いなかった。今はあまり深く考えることはよそう、そのように結論して今度は槍を持つ。
「はぁぁぁ……ってぇぃ!」
気合の声と共に槍を突き出す。今度も衝撃波によって正面にあるものが弾き飛ばされていく。同時に、槍は砕けてしまった。
「むぅ……」
これも懸念のひとつであった。先の戦闘でも一撃ごとに武器が崩壊してしまい、城内での戦闘だったこともあり、パイクやらスパタやらを拾いながら攻撃するということを繰り返していたのだ。どうもディアボロスの攻撃に武器が物理的に耐えられないようである。
次は弓だ。ディアボロスは弓を引く。しかしこれはさすがに、試す前に考えるべきであった。「引いた」という手応えを感じる前に、弓は引きちぎれてしまった。
「感覚の基準も力の強さに基づいているってのは、問答無用で破壊してしまって困ったもんだな……」
そして最後にハルバードである。両手で構え、勢いよく振る。しかしこれまた、試す前に考えるべきであった。ハルバードの柄は折れ、ちぎれたブレードが勢い良く回転しながら飛んでいった。
「武器は使い捨てと思うより他にはなさそうだ」
だが、少なくとも武器が使えないということはない。武器があれば、ちゃんとその武器をどのように使うべきかは体が知っている。そして、まるで使えない武器を除けば、武器を使うことで攻撃範囲が広がる。ほぼ使い捨てではあるものの、これは魔術の変わりにはなりそうであった。一方、被害を限定する必要があるのであれば徒手空拳で戦えばある程度望みは叶えられそうだ。
「強いには強いんだがなぁ」
強い、が随分と不自由な体だ。確かに、この肉体ではこの世のありとあらゆるものを滅ぼす、というのが似合っていそうである。だがそれを望むかというと、特にこの世界に対して強い憎しみがあるわけでもないので、そのような動機はまるでわかないのであった。
自らの拳を眺める。本当に立派な体躯である。元の世界でこのような体躯だったようにはとても思えない。当たり前だが、拳で城を粉砕するような能力はなかったはずだ。そしてこの力は国を破壊し、王を従わせるに足る力であることは証明された。世界を滅ぼすのでもなければこの力は不要か、といえばそんなことは全くない。もしもこの力がなければ、後ろ盾もなくこの世界に放り込まれればただ死を待つだけなのだ。この世界で生きるためには力がいる。今では不十分だ。害をなそうとする者を一撃の元に滅ぼし、いかなる奇襲を受けたとしても微塵も揺るがない力があってこそ、この世界での自分の平穏は保たれる。
力で全てを従える。何人たりとも侵すことのできない絶対の力。それがまず自分に必要なものなのだ。
「ふぅぅ……」
この世界には魔術がある。しかし、それがどのようなものかすら知らない自分には魔術を使うことはできない。これに関しては使用できるかどうか後ほど試していくとして、今着目すべきは魔術的な力がこの世界に存在する、という点だ。魔術というものが独立したものではなく、この世界の法則の一部として組み込まれているものならば、魔術的な力を伴った攻撃、あるいは防御ということが考えられるはずだ。筋力に全てを振ったような肉体からすれば、魔術的な能力一切を見限っている可能性もあるが、試す価値はあるだろう。幸いにも、体は戦闘においてどのように動かすべきかということを理解している。であれば、この体が魔術的な攻撃を知っているかもしれない。
考えるな。体に従え。
ディアボロスはこの日、拳を振る間に日が落ちた。
なんとか明るさが残るうちに宿へと戻ったのだが、変化は明らかに肌で感じていた。町の人々の目は昨日よりさらに厳しかったし、マリーはひたすら恐怖を向けている。
「……なにがあった」
そう問いかけるとマリーは膝から崩れ落ちてしまった。とりあえずつまみあげ、ベッドに座らせる。
「ディアボロス様が、壁外で、大地をえぐり、森を打ち倒し、モンスターを皆殺しにしていると、見た者が語っておりまして……」
やや大げさではないか。確かに随分地面はぼこぼこになってしまったし、木も随分折ってしまったし、巻き添えにモンスターがどんどん死んでいったが、そこまでではあるまい。いやだが、狙いからすればむしろこれで良いのか。
「だからどうした。別に困ることはないだろう」
「あの……ディアボロス様が、血に飢え、殺戮なくては生きていけないような存在なのではないか、と噂されておりまして」
「なにぃ……」
ディアボロスが唸ると、マリーは失禁して気絶してしまった。
(……いや、いいのだ。これが狙い通りなのだから……)
異世界三日目。
「マリー、この街に女を抱けるところはないか」
ディアボロスはマリーが一瞬蔑むような目をしたのを見逃さなかったが、見逃したことにした。
「わたしを抱く、という意味ではなく、ですか?」
「お前がそのためにあてがわれている、という意味なら抱く」
即答するとマリーは首を横にぶんぶんと振った。
「宿によっては売春婦がいる場合もございますが、この国ではそれは違法ですので……酒場で誘う娼婦がいる場合もいると聞いたことがありますが、それまた違法ですので」
「意外と公序良俗に厳しい国だな……売春が違法なのか?」
「いえ、公娼制度がございます。そのため娼館がふたつほど」
マリーの言い方は、明らかにディアボロスが「娼館へ行くのは避けたいはずだ」という前提で話している。だが、その理由はいまひとつピンとこなかった。
「この国で娼館に通うものはどう見られている?」
「安い方の娼館に行く者は、貧しい者を虐げる不道徳者と」
なるほど、東南アジアに女を買いに旅行する男、といったところか。
「高い方に関しては通いつめれば領主ですらも破産するようなものですので、色に溺れた堕落者と」
ちょっと厳しすぎやしないだろうか。いや、マリーが女なので、女連中の間ではそのように認識されている、ということなのかもしれない。男どもとしては英雄色を好むといったところで、適度であればむしろカッコイイと思われている可能性だってあるのだ。と心の中で強弁したが、結局のところどちらにいこうと「体裁が悪い」ということなのだろう。確かに、ディアボロスの理想としては圧倒的な力を前に神のように畏れ敬ってもらうのが最も都合が良い。やたらと力の強いゴロツキのような認識をされてしまうととても困るのだ。
「マリー、確かにお前の心配はとてもありがたい。娼館に通うというのはいかにも格好がつかない」
そう言いながらディアボロスはマリーの肩にちょこんと手、というか指先を置いた。
「だがマリー。俺は溜まっているんだ。このままだと目につく女を片っ端から犯しそうだ」
今度はマリーは心底嫌そうな顔をした。
結局、マリーは「どうすべきか、お伺いを立ててきます」と城に戻っていった。
「さて……」
ただ待つのも時間が勿体無い。ディアボロスは街に出て情報収集をすることにした。マリーから様々なことを聴くことはできるが、この世界に住んでいる人間にとって「知るべきこと」の選別はできない。自分の目で、何が同じで、何が違い、どのような文化や価値観や暮らしが形成されているのかを確認すべきだ。
そう決めるとディアボロスは荷物も持たず街へと出た。
「むぅ……」
元の暮らしの知識が、磨りガラス越しに見る程度にしかない、というのが困りものであるが、少なくとも元の世界の暮らしぶりからすれば随分と差がある、というのが印象である。一言で言ってしまえば、文明レベルが低い。当初の印象通り中世ヨーロッパ……それも、十七世紀頃のそれではないし、先の戦闘ではマスケット銃のような火器も見つけられなかった。
もちろん、この世界には魔術があるので、火器が発展しにくい側面はあるだろう。だが、先の戦闘の限りでは魔術には速射性がない。威力はそれほどでもなくとも、サブマシンガンのような武器があればあの程度の城であれば少数部隊で制圧できるはずだ。
だが、戦闘面に関してはディアボロスは恐らく、サブマシンガン程度の武装では倒すことができないと思われるため、あまり気にする必要はなかった。むしろ問題は生活面である。
とにかく臭い。中世ヨーロッパにおいては「汚物は投げ捨てられるもの」であったはずだが、少なくとも街が汚物に埋もれているということはなく、ここは文化に違いがあるようだ。便器の歴史としては、古代ローマにおいて水洗トイレが用いられていたが、中世ヨーロッパではその文化が退化してしまったと記憶している。ここは、投げ捨ててこそいないが、トイレは水洗式ではない。日本と同じような感じであろうか。
「ふむ……」
こんな知識は次々と出てくるのに、その言葉が指すものは全く思い浮かべられない。なんとも気持ちの悪い記憶状態である。
つとめて気にしないようにして思索を続ける。全体的な文化は中世ヨーロッパ、それも十四世紀頃に準じるものだと思われた。トイレが汲み取り式であることに加えて、風呂もなさそうだ。これは衛生的に問題があるし、日本人にとっては非常に辛いところである。
食事は基本的に質素だ。多く食べないし、昨日はマリーは当たり前のように昼と晩に食べただけで朝食という概念はないようであった。一応スプーンはあり、手づかみではない。実感としては、アジアやアフリカの映像として見る食事風景のほうが近そうである。もっとも、具体的にその光景はイメージできないが。
「難儀な……」
ディアボロスが泊まっている宿の近くは市もあり、活気のある街という感じがする。印象としては商業都市なので、モンスターの活性化によって通商に支障をきたすのは確かに深刻な問題だろう。全体的に薄汚れてはいるが、労働者という印象の者は割と少ない。裕福な国なのだろうか。
だが、子供が非常に多いことを見るに、医療などはあまり発展していないようである。たくさん生んでたくさん死ぬ構造。生まれたらさっさと結婚して、子供をつくり、弱って死ぬ運命だろうか。マリーはいくつくらいだろう。少なくとも成人ではないはずだが、街の子供たちからすれば随分と「おねえさん」である。十五はすぎ、二十には至らないというところか。しかし、その構造だと女子は間引きされる可能性も高い。ディアボロスとしては比較的難しい要求をしたつもりでいたのだが、女をあてがうというのはこの世界の文化に則ればそれほど大した話ではなかったかもしれない。
「小さいな」
こぼしたのは、農地についてだ。この場所からなら農地が一望できる。こちらは、街に住む者よりも明らかに貧しいが、それなりに気力のある表情の農夫たちが労働にいそしんでいた。
だが、一望できる、というのが問題だ。ここが城塞都市であり、壁に取り囲まれているという点を抜きにしても、城へ向かう山岳部に農地があるだけであり、あまりにも小さい。この規模でこの国は暮らしていけるだろうか?
そして意外なのが、イメージしていたような貧民がいないことである。商人は商人であるし、職人は職人であるし、農民は農民である……としか言いようがない。途中、物乞いも見かけたが、気力を失い、項垂れた風ではなかった。それに、金持ちが通りかかるとそれが義務であるかのように物乞いたちに金銭を支払っていたので、そこまで深刻に困る状況ではなさそうだ。貧しく、命は短いが、肩寄せあって楽しく暮らしている。イメージの中の中世というより、「洋風時代劇」といったほうがよさそうだった。
こう和やかでは困る。戦いづらい。
こうなってくると気になるのが宗教観だ。まさかこの世界でもキリスト教が支配的であるということはないだろうが、中世ヨーロッパの文化はキリスト教が決めたといってもよかったはずだ。文化的な違いは宗教によるところが多いと考えられる。
「少なくとも、水洗トイレと風呂を導入するよう要求すべきだな」
この街にはいくつも川が流れていた。そうむずかしいことではあるまい。
いや、それ以前に魔術を科学のように応用して、文化レベルを向上させる、ということはないのだろうか。そのような知恵がないのか、魔術にそのような柔軟性がないのか、いささか悩むところだ。
帰りに思わぬものを見た。男に追い回される少女である。どうすべきか……と迷った。性に関する取り扱いは、元の世界でも地域と時代によって目まぐるしく変遷している。男が少女を襲うことに、問題があるかどうかすらこの世界に慣れないディアボロスには判断のしようがない。よって無視すべし、と判断したのだが、困ったことにディアボロスに駆け寄り助けを求めてきたのである。結果として、追いかけてきた男たちは巨人であるディアボロスを目の当たりにすることになり、なおかつ既に噂は知られている状況である。男たちはディアボロスが目をやった途端にたたらをふみ、そのまま一目散に逃げ出した。
肩で息をする少女は、少し落ちつくと切れ切れに「ありがとう、ございました」と礼を言った。
「俺はなにもしていない」
少女が不安げにディアボロスを見上げる。
「代わりに俺が犯してやろうか」
少女は声もなくへたりこんだ。
「……冗談だ。送っていこう」
ディアボロスは少女をつまんでひょいと肩に載せると街へと向かった。
「……ディアボロス様、ようやくお戻りになられたのですね」
マリーは笑顔で出迎えたが、明らかに無理をいって振り回された挙げ句不在で待たされたことを怒っている様子であった。そして、隣には見覚えのない、金髪の若い騎士がいた。
「はじめまして、私はリクリエ・ラム・シュートゥベルグと申します。今後、貴殿にお伝えすることがあるとき、もしくは貴殿から王宮に御用がある場合、まず私がおうかがいすることとなりました。以後をお見知りおきください」
少し声も高く、少年のようだがしっかりした人物だ。どうも王はディアボロスに当てる人選には相当気を遣っているとみえる。
「今回の件についてですが、まず明日、娼館にお連れします。ただこれにあたり、士官三名、従者二名、侍女三名、及びマリーを同行させます。これはディアボロス様の好みを理解し、迅速に女性を提供するためです。このため、当該時間帯には貸し切りとして余人を近づけないよう、先方とも話をつけてあります。そこで遊んでいただく前に、女性に対する意見を聞かせていただくこととします。また、娼館にお連れできるのは今回のみであり、可能な限り速やかに女性を提供するように致しますが、どうしてもということであればマリーをお使いください」
にこにこしながら、調子も一切変えず、淀みなく話した。トゲもなく、マリーのように嫌悪感を示すこともなかった。この国の価値観についてはまだよくわからないが、少なくともこのリクリエという若い騎士、油断ならない男のようであると判断した。そして、その話を聞く間、マリーが固く目を閉じていたことが、マリーの内心がうかがえるようでもあった。
そこにマリーの意思が反映される余地があったのかどうかは分からないが、少なくともマリーにはディアボロスを拒絶する意思がある。それを汲むことと、嗜好を知っておき、交渉に使おうという思惑が一致した結果だろう。「できるだけ我慢しろ」という要求を暗に含めたことも、王宮側としてマリーにそのようなことをさせたくないという意思を感じた。
「……わかった、それでいい」
「ご理解いただけて、感謝いたします」
リクリエは再びにっこりと笑った。反応が早い。
「マリー、少し席を外せ。リクリエに訪ねたいことがある」
「……?はい、かしこまりました」
マリーは不思議そうな顔をしたが、素直に従った。リクリエは、読めない表情のままだった。
「なんでしょう」
マリーの気配が遠ざかってから、にこにこしたままリクリエは問うた。
「マリーは、王宮でどんな存在なんだ?」
これによってどう扱うべきか、どのような意図を含めたのか知っておきたかった。あまり回答は期待できないが
「セルトハイン卿の令孫で、姫君のお世話をなさっている方です」
リクリエは即答した。
「……どうなされたのですか?」
ディアボロスは頭を抱えていた。リクリエに少し詳しく訊ねたところ、セルトハイン家というのは長く王家と親交が深く、現王とセルトハイン卿も懇意であるという。そうした歴史の長さもありセルトハイン家は長く筆頭家であるが、セルトハイン卿は男子に恵まれず、マリーは女系ということだ。女系でも女子でも家督を継ぐことはできるが、基本的には侍女よりは騎士のほうが位は高い。とはいえリクリエから見れば、シュートゥベルグ家は中堅どころにすぎず、マリーとは家の格が違う、ということになるらしい。わざわざマリーを紹介するときに敬った言い方をしたのもそのためのようだ。
あまりにも意外すぎた。このようなことは説明されなければディアボロスには一切伝わらない。自らの側近として置いている最も重要な臣下をあてた、ということになるのだが、それによるアピールはしなかったのだ。意図がよくわからない。それが信頼できる人物だったからだろうか。それとも、あのとき手近にいたからだろうか。だが、セルトハイン卿とは懇意にしているというならば、そんな理由でほいほいと出してしまえば王としては取り返しのつかないことになるのではないか。いや、むしろ気のおけない仲だからこそ、セルトハイン卿になにかのときにはマリーを使うように言い含められていたのかもしれないが。
そして、先のようにマリーを気遣うことにも納得がいった。「たかが侍女ひとり」ではなく、マリーに対する陵辱は避けたいわけだ。
このことの何が難しいかといえば、ディアボロスのマリーへの態度が間接的にこの国に対する態度になってしまうということだ。現状において、ディアボロスとしてはこの国はできるだけ利用したいと考えているため、支配的でありたいのであり、敵対したいわけではない。マリーを陵辱するということは、この国から今搾り取ることはできたとしても、その先は生贄を捧げたにも関わらずこの国を蹂躙しようとする悪魔と抵抗する人々という構図しか残らなくなる。
「なんでもない」
言わないほうがよかろう、とディアボロスは判断した。当面、このことには察しがついていないように振る舞うのが賢い。
「マリーはなんとしても俺に抱かれたくない、と主張したわけか」
「……はい」
いくらかの間があったが、マリーははっきりとそう答えた。ディアボロスは思わず吹き出し、そして大声でわらった。宿がゆれ、花瓶が落ちた。
「……どうなさいました?」
いくらか慣れたのか、それほどは驚かなかったマリーが怪訝な顔で訊ねた。
「いや、随分はっきりというものだと思ってな。王ですらも、びくびくと哀れなものだったのに」
マリーはきょとんとしてから、合点がいったようにうなずいた。
「それはそうです。わたしは昨日にもディアボロス様に陵辱され、痛めつけたのちに生きたまま食べられてしまうものと思っていたのです。しかし、まだ三日目とはいえ、ディアボロス様がそのようなことはしない方だと理解していますし、そのようなことを隠し立てしたところで気を良くしてくださる方でもないと理解しています。というより、わたしが『そんなことはない』と申し上げたら、すぐにでも抱かれるのではありませんか?」
ディアボロスはまた笑った。
「確かに。そのとおりだ」
ディアボロスはマリーのことが気に入りはじめていた。どうせなら、この女を寄越せ……と主張してもいいと思うが、恐らくそれは早計だろう。
「リクリエ様にそのことをお尋ねになったのですか?」
「そのこと?あぁ、マリーが犯されたくないと駄々をこねたのかという話か。違う」
何を、と言わないのを見て、マリーはそれ以上の追求を諦めた。
「それよりマリー、この国では強姦は罪になるのか?」
その言葉にマリーは眉をひそめたが、それを隠して答える。
「……最も罪が重いのは、処女を犯すこと、または他人の妻を犯すことで、公開死罪になります」
「……ん?」
「次いで娼婦を犯すことが重く、これまた死罪、または体を切り取ります」
「……ん??」
「それ以外の女を犯すことも重い罪です」
それが誰であるか、を基準に罪の重さが変わるというのは、中世というよりも古代的だ。しかし、「他人の妻を犯すことが重罪」というのは、あまりキリスト教的ではない。やはり宗教観が違うのか。
「なぜそのようなことを聞かれたのか、お聞きしてもよろしいですか?」
マリーが尋ねる。ディアボロスは先のことを話すことにした。
「……なるほど」
詳しくは言わないが、マリーは強く安堵の表情を見せた。立場として、国を代弁するわけにはいかないが、強姦が重罪である以上、今の立場でディアボロスにそのような行いに出られるととても困る、ということだろう。
「ディアボロス様、街の女を犯すくらいならば、わたしにしておいてくださいまし?」
「考えておこう」
マリーとこうして過ごすことも悪くないと思いつつあるが、この時がそう長くは続かないとも思っていた。もはや、この国との真の友好関係というのはありえない。ディアボロスはあくまで、この国の「力の悪魔」でなくてはならないのだ。それは、このようなぬるま湯が許されるわけではない。
夜。
ディアボロスは目をさました。隣ではマリーが寝ている。黒髪を短く揃えたマリーは綺麗で、しかしこうして寝ている姿を見るとひどくあどけない。寝息すらも耳をそばだてなくては届かないほど静かに眠っている。貴族というのは眠り方すらも上品であるように訓練されているのかもしれない。
「さすがですね」
低めの、流れるような女の声がした。ディアボロスは驚かなかった。ゆっくりと振り向く。宵闇の中姿を照らすものは何もないが、ディアボロスは夜目がきくようである。少なくともそれがどのような姿をしたものであるかは判別できた。薄い金髪にりりしい赤い目、町娘のような格好をしているが、身なりも振る舞いもあまりにも品がよすぎる。高い身分を隠すことはできておらず、町娘を名乗るにはひどい違和感であった。後ろに二人の男が無関係のように控えている。
「見事な侵入芸だな。間者か」
できるだけ静かに立ち上がる。もしもここで戦闘になったならば、マリーは絶対無事では済まない。できるだけゆっくり動き、女を捕まえて握りつぶすくらいはできるだろうが、相手は三人。なるべくならマリーを巻き込まずに済ませたい。
「ご安心ください。私は敵ではありません。武器は何も携行しておりません」
女が言った。確かに、武器は見えなかった。こうして忍び込んだことからしても、騒ぎを起こす意図はないのだろう。考えられるのはマリーの暗殺、もしくはディアボロスとの接触。
(王国の人間か……?)
自然な答えだが、ディアボロスはすぐその考えを否定した。王の態度から考えても、また王の認識からしても、ディアボロスを倒そうと考えるのはだいぶ無理がある。もし仮にそう考えたとしても、暗殺などという手段を考えるだろうか。いや、正面からでは倒せないと見て暗殺というのは考えられなくはないが、それもやはり無理がある。それならばマリーにやらせるか、マリーでなく暗殺に適した人物をつけるほうが可能性はある。
それにこの女、少し違和感がある。なんとなくだが、顔立ちがこの世界で見てきた者たちと少し系統が違う気がするのだ。
「手短に」
「私はノイラル公国の騎士、ネルラです。この度は貴殿を我が国に迎え入れるべく、お話に参りました」
ディアボロスの言葉に間髪を入れず答えた。しっかりと用意してきている様子だ。その言葉は予想の範疇であり、ディアボロスは驚かなかった。
「貴殿が所望されている女については、お望みの通り用意させていただきます。こうして私がきたのもそのため」
女が続けた言葉には少し驚いた。「女の価値と人権」という意味ではディアボロスの感覚と異なることは理解しているが、それでも明らかに高貴な身分にある人間が、怪物と恐れられる存在との交渉に自ら出向き、なおかつ自らが貢物の一部であるという。そこに女の意思が全く介在していない可能性もあるし、考えれば不思議ではないのだが、ディアボロスの直感には反していた。
「貴様が俺のものになると?」
「はい」
迷いなく答えた。相当に覚悟が決まっているマリーですらも怯え、様子を窺いながらであるというのに、ネルラは全く恐れてもいないようだった。
「……おもしろい」
対応に苦慮しているディエンタール王国と比べるといい決断っぷりだった。ディエンタール国王は懸命だが、それでもディアボロスを敵にしないため、機嫌を損ねないようにという色合いが強く、それでいて妥協はしない姿勢でいる。そして、まずい手を打たないよう、慎重に事を進めている。それに対してノイラル公国はディエンタール王国の手の遅さを突いて全力でかっさらおうという考えに出たわけだ。
ディエンタール王国と違い、ノイラル公国は別にティアボロスと関わらなくてはならない理由はいまのところない。もちろん、ディエンタール王国がディアボロスを取り込んだ場合、ディアボロスに実際にその意思があるかどうかによらず周辺諸国としてはディアボロスが侵攻に加わることを考えなくてはならない。わずか三日の間にその情報を収集し、決断し、動くところまでやったのである。
「既に屋敷と領地、侍従、そして食料まで体制は用意してあります。その他、お望みのものがあればなんなりと」
ネルラが言う。堂々と、自信たっぷりである。ディアボロスが王に条件を出したときに間者が聞いていたとは考えがたいのだが、完全にディアボロスが何を望んでいるかを把握している態度だ。だが、その条件はディアボロスとしては「とりあえず出してみたもの」であるから、それで万事良しというわけではない。ディアボロスが考え込んでいると、隣で動きを感じた。マリーが起き上がった。
マリーは目をこすり、ぼんやりとその光景を眺める。そしてはっとしたように飛び退いた。
「マリー」
ディアボロスが低い声で言う。
「他言は無用だ」
はじめての殺気を感じ、マリーはこくこくと頷いた。
「紙とペンは」
「こちらに」
後ろに控えていた男が差し出す。武器ではない、とは思っていたが持っていたのは紙とペンであった。準備のよさに、さすがにディアボロスも面食らった。
「俺はこの国の言葉は書けない。貴様らが書け」
ディアボロスはそう命じた。ランプに火を入れる。どうやって火をつけるのかと思ったが、指に何かをつけてランプの先端をこすると火がついた。
三人の姿が映し出された。ネルラは、予期したよりもはるかに美しく、思わず唾を飲むほどだった。男たちは背が高くがっしりとしている。こちらは専門のスパイだろうか。
男がテーブルに紙をおき、ペンをとった。ネルラが聞き取り、男が書くということになったようだった。ディアボロスはそれを認め、条件を並べた。広く、水洗トイレを普及させ、風呂を普及させること。水の衛生を高めること。文化水準を高めるための研究組織を結成すること。国家として医療研究を行う組織を結成すること。条件は継続的に追加されたり補充されること。
ノイラル公国の者たちは、それが意味するところが理解できず、ディアボロスは事細かく説明した。ネルラにも、男たちにも困惑の色が浮かんでいた。それは、なぜその要求をするのかということよりも、その要求そのものに説明が必要であるということだった。
「これらはこの国にも要求する。より早く、完全ではなくとも形にできたのなら、そちらを選ぼう」
男が書き終えると、ネルラはすっと胸の上に手を当てた。
「ありがとうございます。必ず。少しの間、お待ちください」
そう言うと、三人は静かに部屋を出ていった。
「……他国の方ですか」
マリーが口を開いた。
「マリーは本当に物怖じせんな。なぜそう思った」
ディアボロスは呆れたように言った。
「書かれていた言葉が、違いました」
なるほど。国ごとに当然ながら言葉は違うか。
「他言無用」
「心得ております」
言葉が違う……そのことにディアボロスはひっかかりを覚えた。そもそも、この国で見る文字はディアボロスには覚えがない。だから、いくらか言葉は覚えたが基本的に読み書きは全くできない。だが、マリーとの会話に困ることは全くない。
「話す言葉は同じたったな」
「はい」
確信は全くなかったが、ディアボロスはそう言った。マリーの字が読めない。ネルラの字も読めない。だが、言葉は通じている。ディエンタール王国の言葉がディアボロスに理解できるとして、ノイラル公国の言葉はどうだろう?全く不明だ。少なくともマリーがネルラたちの字が読めない以上、言語は異なると考えられる。ディアボロスにとって支障はないのだうろか。
「……国を出られるのですか」
マリーが尋ねた。
「マリーがどうしても側にいてほしいと言うならば考えないではない」
ディアボロスは冗談めかしてそう答えたが、マリーは何も言わなかった。