まえがき
本記事は私の作家としての経験をもとにしたものではなく、文化研究のほうの成果をもとに書いたものとなります。
はじめに
近年はライトノベルが広く親しまれています。 しかし、ライトノベルを好む方にとって、「ライトノベル以外の小説って何?」と思うところがあるかもしれません。
私の作品はライトノベルではなく文芸小説を指向しているのですが、ライトノベルのみを読まれる方にはただ馴染み難い作品としか見えないということもあるでしょう。
ライトノベル以外で小説のカテゴリとして聞かれるのは「純文学」でしょう。 しかし、こうしたカテゴライズは複雑に多岐に渡って行われます。
「ライトノベル」という括りから分かるように内容的なジャンル分けではありません。 ですから、「ミステリ小説」「ファンタジー小説」「恋愛小説」といった分け方とは異なるわけですね。 ライトノベルという括りにもそれらのジャンルはあるわけですから。
小説などの作品は一般に文芸作品のひとつとしてカテゴライズされてきました。 これは、わかりやすく「文芸誌」などと呼ばれる雑誌媒体がそれらの作品を取り扱い、文学賞などもそれらに基づいたものが多くあります。
ライトノベルはこれらの文芸誌の派生として扱われてきた作品群から、さらに別レーベルを立てて独立したことで発生してきたものと考えられます。 若年層向けの文芸作品として「児童文学」というカテゴリがありますが、この中でよりエンターテイメント性が高いものについてヤングアダルト小説として分離されるようになりました。 児童文学というのは意味としてプレティーン(12歳まで)を指す場合と、ティーンエイジまでを含める場合があります。一方、ヤングアダルト小説というと対象読者は二十代までを含む場合があり、印象が少し異なります。一方、ティーンエイジャーを中心読者層とするものとしてジュブナイル小説というものがあります。これを踏まえて、児童文学と言う場合にエンターテインメント性に特化していない作品を指す場合もあります。
この時点で、「文学としての高尚さ」で分類しようとしていることがわかります。 一般に文芸レーベルのミステリ小説などは、エンターテインメント性の塊だと思うのですが、それでも文学として扱われます。
文学という言葉はそもそも曖昧で、言語作品の学問を文学と言う場合もあれば、作品創造を指す文芸学であることもあります。 さらに文芸と文学を区別する(これは日本語でないと非常に表現が困難なことですが)場合すらあります。これに関しては、本記事でも基本的に区別して述べていますが、文芸と文学を区別するのはややこしすぎるため、「文芸作品と純文学作品」を別のものとして取り扱いたいと思います。
ジュブナイル小説からさらにエンターテインメント性を高めたものと、ヤングアダルト小説の発展形としてライトノベルとなったわけですが、前述のとおりライトノベルは「ライトノベルレーベルから発刊された」というのがライトノベルたらしめていたと言えます。
ライトノベル
初期のライトノベルを内容によって従来のジュブナイル小説やヤングアダルト小説と区別するのは困難、というより不可能に近いものです。 現代においてはライトノベル小説と、ライトノベルレーベルではないレーベルから発刊されるヤングアダルト小説にはテイストの違いが見て取れますが、当時はそこまではっきりとした違いはありませんでした。 もちろん、「レーベル色」というものはあったため、ある程度違いを感じる余地はありましたが、線引きができるようなものではありません。
初期のライトノベル作品といえばロードス島戦記、フォーチュン・クエスト、スレイヤーズ!等があります。 ライトノベルをどのように定義するかによって、「初期」という表現に異論が出ることになりますが、ここではレーベルを重視しますので、富士見ファンタジア文庫、角川スニーカー文庫などのレーベル発足に合わせています。
これ以前のライトノベルにつながる流れとは異なり、これらライトノベル黎明期の作品群はRPGの世界観を継承しています。 古典的ファンタジーは使い古されてしまったことと、SF作品であるソードアート・オンラインが大ヒットしたことを踏まえて、現在ではどちらかというとネットゲームや近未来的世界観のゲームを下地とし、またゲームで描かれるような世界ではなくゲームそのものとして描かれることが多いですが、当時は剣と魔法のファンタジーの「王道」というものが確立されようとしているような時期であり、非常に古典的なファンタジー世界が描かれていました。
当時のファンタジー世界といえば、やはり大ヒットしたドラゴンクエストの影響が非常に大きいのですが、もうスーパーファミコンの時代になっているためドラゴンクエストは定番として既に古くなりつつありました。つまり、「勇者が王様の命を受けて魔王討伐の旅に出る」というフォーマットは、既に「ありきたりすぎる」と考えられていたわけです。 そうなると考えられるのは「なんのために冒険をするのか」という部分を物語の核心にすることで、善悪が不明瞭な作品にするということがよく行われました。また、主人公を勇者ではなく冒険者・探索者にするということもよく行われました。これはむしろドラゴンクエストよりも前、つまりウィザードリィやダンジョンズ&ドラゴンズのようなテーブルトークRPGの世界観に回帰しているとも言えます。 ロードス島戦記はそもそもテーブルトークRPGのリプレイとしての小説になります。
このゲームで見るようなファンタジー世界を小説で読む、というのは非常に刺激的な体験です。 当時のゲームではドット絵で、ストーリーは文字数少なく表現されるため描写に深みがなく話が唐突です。 一方、小説であれば膨大な文字数によって描写を深められるため、ファンタジー世界に対する没入感がまるで違います。 つまり、読者はまるで自分がそのファンタジー世界に入り込んだような体験ができるわけです。
これらの作品がアニメ化されるとよりそれらは鮮明になります。ほとんどを想像力で補っていた世界が映像として眼の前で繰り広げられるわけですから。
ライトノベル作品はそもそも商業的に見ればオタク向けのものであり、特にゲームオタクに向けたものでした。 ソノラマ文庫、コバルト文庫などはジュブナイル小説、あるいはヤングアダルト小説のレーベルであり、そこからライトノベル的方向性に少しずつ進むのですが、富士見ファンタジア文庫はRPGゲームを好むような層を最初から狙ったものだったのです。 これが九十年代も半ばとなると「エロ」をフィーチャーした作品が増えてきます。ライトノベル以前にも少年向けにエロを打ち出したものはあったのですが、セクシー系漫画やアニメの路線を取り込んだものなので、また少し違います。
九十年代後半には非異世界ファンタジーで、より文学的テイストの強い作品が出てきます。 その流れを牽引したのが電撃文庫で、当時は電撃文庫はライトノベルの中では少し大人っぽい作品を出すレーベルでした。 そもそもレーベル戦略として、ジュブナイル小説のSFファンタジー小説、青春小説を現代風にアップデートするという方向性がありました。 ですから、テイスト自体文学的ですし、ゲームやアニメとは異なる世界観の作品が主体でした。
その後、エロゲーのブームがあり、「泣き」のブームがやってきます。 これは、エロゲーが従来多かったエロスに特化した方向性から、泣きゲーと呼ばれる方向性の作品が流行したことと関係があります。きっかけはタクティクスの「ONE」という作品ですが、主要キャラクターの死を題材とした作品が主流でした。 また、ToHeartによって「萌え」という概念が確立され、キャラクター中心の学園恋愛モノの典型というものが出来上がっていきます。エロゲーの中でも学園恋愛モノというのはありましたし、それ以前に恋愛ゲームとしてときめきメモリアルもあったわけですが、コンシューマ向けの恋愛ゲームはとにかくゲーム性重視でしたし、エロゲーの学園恋愛モノは生々しい恋愛模様が多かったため、生々しさを脱臭したようなキャラクター主体の恋愛物語というのはそれまであまり成立していなかったわけです。
こうしたことを経て「萌えという概念を持ったオタクの文化」というものが芽生えていきます。 この文化が流入することである程度ライトノベルというものは変貌していくわけですが、この流れは抑制的でした。 むしろそのような作品方向性に染まっていくのはインターネットによるコミュニティベースのものです。
この時期は2ちゃんねるが台頭してくる時期で、その中で特にVIP板によってキャラクターの定型化が進んでいきます。これは属性づけでもあるのですが、無数の「定番のネタ」が登場するとともに、独特なノリが形成され、そのノリがライトノベルに取り入れられていき、「特定層のオタクの文化」として取り込まれていきます。 これを引き継いだニコニコ動画の文化が形成されるとそれはより色濃くなり、2000年代後半にはライトノベルは「オタク好みの」作品群へと姿を変えます。
その背景として、数多くのライトノベルレーベルを角川が吸収する形になった、ということが挙げられます。 というよりも角川が影響力を持たないライトノベルレーベルはシェアを持っていないといっていいくらいですし、ニコニコ動画も角川傘下ですから、意図的にライトノベルをそのような方向性に誘導した、と言えます。
それは2ちゃんねるVIP板やニコニコ動画と親和性が高い層をターゲットにしたということもありますし、商業的にメディアミックスを前提とすることでヒットコンテンツで大きな利益を出そうという企画性が最も重視されるようになったということもあります。
ただしこの場合、商業性というものが重視されるため、「オタクのおもちゃ」としては必ずしも適さない面があります。 そうした部分はアマチュア小説投稿サイトに引き継がれたとも言えますが、こちらはより話が複雑であるため、本記事では割愛します。
文芸作品系ノベル
文芸作品はおおまかに、単行本として出されるものと最初から文庫本で出されるもので基本的な方向性が違っています。
単行本で出されるものは文学性が高いものが多く、文庫本で出されるものはエンターテインメント性が高い傾向があります。 シリーズものとして長く続くようなものは文庫本で展開されることが多く、特にミステリー作品に多く見られます。
ミステリーとホラー、そしてハードボイルドはエンターテインメント性の高い文芸小説の定番ジャンルで、シリーズとして続くものも少なくありません。
文庫本で展開されるミステリーに関しては、コメディタッチのものも少なくないもので、こうしたものは「軽さ」を感じるものも珍しくないのですが、ライトノベルとは明確なテイストの違いがあります。それは、ギャグ漫画というジャンルであったとしても、少年ジャンプとビッグコミックにテイストの違いを感じられるようなものです。
どちらも文芸誌上に掲載される場合もありますが、掲載されることなく単行本、あるいは文庫本として出版される場合もあります。
少女小説
少女小説は主にティーンエイジャーをメインターゲットとしたエンターテインメント小説です。
基本的には「ライトノベルの少女向け版」であり、このことからもわかるようにライトノベル自体がやや男性向けとなっています。
「やや」というのは、ライトノベルを好む女性は決して少なくないからです。 これは別に不思議なことでもなく、少女漫画を読む男性よりも、少年漫画を読む女性のほうが珍しくないのと同じようなことですが、その現象はそもそもキャラクターとして「女性ウケのいい男性を見て喜ぶ男性は少ないが、男性ウケのいい女性を見て喜ぶ女性はそこまで少なくない」という点が挙げられるでしょう。 かわいい女の子キャラクターを好む女性は結構多いですからね。
単に題材やキャラクターが違うだけでライトノベルのようなものかといえばそうでもなく、もう少し文学テイストの強いものが多い傾向にあります。 つまり、少女小説はライトノベルよりもヤングアダルト小説やジュブナイル小説に近く、定番題材が少女の成長物語や内面描写を主としたものなどであるといった特徴があります。
このことが、単純に女性でも少女小説を好む層を限る要因でもあり、また男性が少女小説をそんなに読まない理由でもあります。 ライトノベルとは読者層にかなりの違いがあるのです。
アマチュア小説でも少女小説に属するものは多く、ライトノベルとは違ったテイストを求める人々に人気があります。 「悪役令嬢」という題材は、ライトノベル系作品(アマチュア作品を含む)の題材として男性主人公が女性キャラクターに囲まれるゲームが用いられやすいということを踏まえて女性主人公になるように繰り替えたものであり、アマチュア少女小説にはよくあるものです。 基本的な構図がライトノベルと共通するためライトノベル読者にも読みやすい少女小説であるといえるでしょう。もっとも、現在に至っては「悪役令嬢モノ」という題材が少女小説であるとは言い難いですが。
また、ライトノベルが突飛な設定を用いやすいのと比べると、少女小説は等身大の青春物語とすることが多いという点も特徴でしょうか。少女小説は女性が共感可能な物語であることが多く、一時流行した「ケータイ小説」も少女小説の一種とみなせるものが多かったように思います。
なお、話が複雑になってしまうのですが、ポプラ文庫(20代・30代の女性がメインターゲット)なども少女小説にカテゴライズされることがあります。
ヤングアダルト小説
女性向けのヤングアダルト小説は少女小説にカテゴライズされてしまうことが多いため、現在のヤングアダルト小説というと男性向けが主となります。
しかし、実際には「ライトノベルではない男性向けヤングアダルト小説の文庫レーベル」というものがほとんどなく、YA!ENTERTAINMENTくらいでしょうか。
マイナーである理由は、エンターテインメント性の高い文芸小説レーベルでも、ライトノベルでもない立ち位置というのがあまり明快なものではないからでしょう。近年はある層に特に好まれているものという作品性に集中しており、人気レーベルのどれにも当てはまらないようなものが出版されること自体があまりありません。
ヤングアダルト小説を求める層は少女小説や文芸小説を好んで読むことが多く、それらでカバーされていない守備範囲があるとはあまり言えません。 漫画やアニメといった文化を下地にしたライトノベルは独特だと考えることができますが、文芸を下地にしたものに関しては内容的には多様で、だいたい求めるものは見つかるためです。むしろそうした中で特定のテイストを持っている少女小説が特殊だと言えるでしょう。
ライトノベルと文芸作品はどう違うのか
現代において、それらは内容的な違いではない、と考えられます。 もちろん、角川が支配的であるライトノベル市場において、「ライトノベルらしい作品性」というものはあり、それは「角川が売りたい方向性」であると言えますが、そうでなければライトノベルではない、ということにはなりません。GA文庫などもありますから。
ライトノベルと文芸作品の違いは、むしろ過程にあります。
ライトノベルを長々と説明したのは、現代のライトノベルは高い商業性を持って展開されている、ということを述べるためです。 つまり、長いシリーズ展開、メディアミックス展開などを見据えた上で、大きな収益を見込んで展開されます。 これは、アマチュア作品で好評であるなど、展開しやすい下地がある場合もありますが、そもそも「売れる作品を製造する」というのが基本的なスタイルです。
そのため、ライトノベルは作家より先に企画があります。 極端な場合、既に企画があって、骨子が出来上がったものを誰に書かせるか、という話になる場合もありますし、また作家が企画を持ち込んで通してから作る、という場合もあります。
基本的に企画はあまり斬新なものにはなりません。売れるという確信を持つことが難しいからです。 そのため、作家に最も求められるのは「骨子がある状態でいかに面白く肉付けするか」となります。 もちろん、企画力やプレゼン力なども求められることになります。
一方、文芸レーベルのものについては名のある作家の作品を除くと、コンペティションによって掲載・発刊が決まるのが普通です。 そのため、常に作家、あるいは作品が先にある状態になります。
名のある作家の作品が出され続けるのは、その人が書くものが支持を得ているためです。そのため、どのようなものを書くかは作家に委ねられており、高名な作家でも駄作を生み出してしまうことはあります。 このように文芸作家はどちらかといえば芸術家であり、自身を表現したアートを生み出す者であるということができます。
もちろん、小説を書く上で「感性・才覚」と「技巧」というのは両輪であり、どちらか片方だけでは成立しません。 ライトノベル作家であっても熱狂的なファンを獲得するような感性を持っていたほうが良いですし、文芸作家であってもどんなお話でも面白くできる技巧があるに越したことはありません。 しかし、残念ながらこれらは両立することが難しく、理性的に計算し構築する能力を磨けば感性は鈍くなりがちですし、芸術的感性を高めると冷静さを失いがちです。そのため、基本的にはどちらかに寄っているのが普通で、両立する場合でも時間をとって切り替える必要があったりします。 実のところ、これは音楽や絵画などでもあることです。
ライトノベル作家の場合、確実な成果を要求される場合が多く、「今回は筆が乗らなかったので引き受けたけれど書けませんでした」は許されないのが普通です。アーティスト(芸術家)かプロデューサー(製造者)かというのはかなり大きな違いであり、求められる能力も違ってきます。もちろん、要求される社会性といったものにも違いが出てきます。
されどどちらも欠かせぬもの
私は研究者として観測・分析することであれば高い専門性を持っていると自負するところではありますが、残念ながら小説に関してはただの素人に過ぎません。 長く小説を書いていますが、それはただの趣味人としてのこと。物書きとしてお仕事をいただくことはありますが、小説を出版したことは残念ながらありません。
しかし素人といえども作家性というものは出るもので、私は書きたいものを書くことに長けるため、適性としては文芸作家になるほうが向いている、ということになります。 なにを当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、ライターには「書こうと思えば書ける」という人は少なくないものですし、アフィリエイトブログなどで稼いでいる人などはさして詳しくも関心もない事柄に対して記事を生み出すことができたりします。一方、そのような人は書きたいことに欠け、何を書いても同じようなものになることもありますが、私の場合は自身の書きたいことであれば筆がよく乗りいくらでも書ける一方、題材はあるが気は進まないものに関しては遅々として進まないため、小説を書くとしてもそのようになるのは必然と考えられ、それは作家性として表現できるものであると言えるでしょう。
これは、「とにかく多くの人に読まれ、人気となる」ことと「自分が書きたいのを書いて、少し読まれる」ことのどちらにより価値を感じるか、というところでも見るところができます。
これはプログラミングでもあることです。自分の好きなプログラムなら昼夜を問わず書き続けられるが、仕事で作れと言われると気乗りせず能率も悪い、という人もいれば、仕事としてやる分にはきちんとこなすが、好きなプログラムを作れと言われても何を作れば良いかわからない人もいます。 音楽でもあることなのですが、こちらは表現が難しく、ただ劇伴などを受注して作る作曲家は要求されたものに的確に応える能力が求められるため製造能力に長けていますが、あくまで自分の内にある感性によってしか曲を作れないが、それこそが支持されているという人もいます。
しかしそのような作家性を備えていることが、すなわち文芸作家として成立するということにはなりません。 人を惹きつける作品を生み出す感性もなければ、巧みに物語を彩る技術もない、ということもあるわけです。 当然、作家性がそうである以上、感性、つまり「魅力的な物語を生み出す天賦」を磨くことを重視するわけですが、それがどれほど秀でていたとしても物語としてまとめ上げる能力がなければ小説として成り立ちすらしません。
実のところそれは私にとって現実としての問題です。私には「作品としてまとめ上げることができない」という壁が現実に立ちふさがるのです。
そのことについて、先日サイトウケンジ先生にご指導をいただくことができました。 サイトウケンジ先生はライトノベル作家であり、またゲームのシナリオなども書かれる方ですので、「商業ベースの作品」を生み出す優れた能力をお持ちの方です。
シナリオ、実はやったことがあるのですが、プロデューサーの考えていることを期待以上に具現するということが必要だったりして、かなり大変です。無理矢理書くと一気につまらないものになりますしね。 シナリオライターとして優秀な人ってすごいな、と心底思います。
そこで指導頂いて感じたことは、私には基本的な技術がまるで足りない、ということです。 それは、文章を書く技術ではありません。文章を書く技術に関しては、こうした記事も書いていますし、技術記事や論文も書きますから、当然ある程度備わってはいるのですが、「物語を作る技術」が足りない、というより基本からできてない、ということを痛感しました。
結局のところライトノベルのような商業製品としてのものであるか、あるいは文芸小説の芸術作品であるかということは、重視される部分が変わるといっても、それは感性も技術もある程度のレベルに達した上で、そこから際立って優れたものであるべきところは何かという話であって、他を軽視できるわけではない、ということです。 私としても文章でお仕事をいただくことも少なくないのですから、技巧は最低限は備わっているという自負があったものの、実のところまず基礎の基礎からやらねばならぬということを痛感して痛い痛い。
もしこれを読まれていて、ライトノベル作家になりたい、という方がいらっしゃいましたら、ライトノベル作家とは「利益になる作品を製造する人」であるということに着目したほうが良いかもしれません。 エンジニアのようなものなので、優れた技術を獲得すれば仕事が得られる可能性は高いですから、文芸作家よりはずっと安定した進路だと言えるのではないでしょうか。逆に、ただ物語を生み出して一発を狙っていても安定した仕事にはならない、とも言えます。ビジネスを託す相手として相応しいかどうかが問われるでしょう。
さて、まるで基礎がなってないということが明らかになった私はいかにすべきか。それは明瞭なものです。 「他無し、但だ手の熟せるのみ」